レオナルド・ダ・ヴィンチの師として
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「アンドレア・デル・ヴェロッキオ」の記事における「レオナルド・ダ・ヴィンチの師として」の解説
1466年には、当時14歳であったレオナルド・ダ・ヴィンチを弟子として採用した。 レオナルドが工房にいつ入門したかは諸説あるが、当時のフィレンツェの商工組合が14歳から徒弟修業を始めていることや、ヴァザーリが入門時期について「少年時代」と言っていること、徒弟期間が通常6年間であったことなどから、「1466年の14歳のころに入門した」との説が広く認められている。 ヴァザーリによると、レオナルドの作品に感心した父のセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチが、友人であったヴェロッキオにいくつかの作品を見せたところ、素描と彫塑の才能が抜群であったので、ヴェロッキオも大変に感心し、弟子として迎え入れる運びとなったという。レオナルドは私生児であり、認知されていなかったようだが、この時点ではセル・ピエロのただ1人の子供だった。レオナルドは初めの2年は工房に住み込んでいたが、それ以降は父の家から工房まで通った。 この工房入門に、ピエロ・デ・メディチが一枚噛んでいたという説がある。レオナルドは「メディチが私をつくり、そして滅ぼした」という言葉を残している。 ヴェロッキオの工房は当時の芸術家たちの工房と同じように、美術学校とデザイン・スタジオが一緒になったものであった。弟子たちはまず床の掃除など雑用から始め、依頼された絵画の制作を手伝い、そうしてようやく一人で絵を描くことが許されたという。レオナルドは20歳前後でその段階に達しており、そのころに『キリストの洗礼』の天使のうちの1人を描くことを任された。 ヴェロッキオはレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた天使を見て、自分よりも色の使い方において彼が巧みであることを知った。弟子が自分より優れていることを知った彼は、絵筆を折り、その後2度と絵を描くことはなかったという有名なエピソードがあるが、このエピソードは後世の創作に過ぎない。その後は自分の工房の絵画部門はレオナルドに任せ、自分は専門である彫刻に専念したという。 ヴェロッキオは1460年代後半に、フィレンツェ大聖堂のドーム部分(クーポラ)の円球と十字架を制作したが、レオナルドは、『パリ手稿G』において、「私達がフィレンツェ大聖堂の球を接合した方法を覚えている。」と述べていて、ブロンズ球のデザインに係わっていた事を示唆している。また、このブロンズ球を天蓋に揚げる際に使われたフィリッポ・ブルネレスキの機械に魅了され、スケッチに取って絶賛している。 1472年ころにはレオナルドは既に修業を終え、一人前の画家として独り立ちすることを許されていた。その証拠として、同年加入した聖ルカ組合の現存する登録簿には 『セル・ピエロの息子、画家レオナルドはこの登録簿の2面にわたって記入したごとく、当組合のために彼が享受する恩恵に対する謝礼として、6ソルドを1472年6月までに納入する義務を負う』 とあることから、親方になる資格をすでに持っていたことが伺える。 独立の資格を得た1472年以降もヴェロッキオの工房にとどまっていたことを裏付けるのは、1476年にレオナルドが他3名とともに男色の疑いで密告された、サルタレッリ事件の記録である。その中には「アンドレア・デル・ヴェロッキオ方のセル・ピエロの息子、レオナルド」と記されている。 このサルタレッリ事件が引き起こされた際、ヴェロッキオの工房は枢機卿ニッコロ・フォルテグエッリ記念碑を巡ってポッライウォーロの工房と激しく争っていた。当時はタンゴーリといういわゆる目安箱が密告に用いられており、この箱に紙を投げ入れるだけで誰でも簡単に相手を告発でき、中傷が容易いことであったので、ヴェロッキオ工房の主要メンバーであったレオナルドを陥れるための策謀ではないか、とする研究者もいる。レオナルドを含めた4人は全員とも無罪の判決が下された。 結局1478,9年まではヴェロッキオの工房にとどまり、助手の期間もあわせておよそ10年以上工房で多様な基礎修行をした。 なお1479年頃に工房が受注したピストイア大聖堂祭壇画の『受胎告知』はレオナルドの作品としてよく知られているが、実際にはギルランダイオがテンペラで描いたのちに、ロレンツォ・ディ・クレディをレオナルドが指導しつつ、制作した合作である。
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