レオナルド・ダ・ヴィンチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/04 09:32 UTC 版)
絵画作品
近年の研究ではレオナルドの科学者や発明家としての才能が高く評価されているが、400年以上にわたってレオナルドが最も賞賛されてきたのは画家としての才能である。現存するレオナルドの真作、あるいはレオナルド作であろうと考えられている絵画作品は僅かではあるが、1490年時点で「神の手を持つ」画家だと言われており[76]、いずれの作品も傑作だと見なされている。
レオナルドの作品は、様々な出来の多くの模写が存在することでも有名で、長年にわたって美術品鑑定家や批評家を悩ませ続けてきた。レオナルドの真作に見られる優れた点は顔料の塗布手法だけでなく、解剖学、光学、植物学、地質学、人相学などの詳細な知識に立脚した、革新的な絵画技法である。人物の表情やポーズで感情を描写する技法、人物の配置構成における創造性、色調の繊細な移り変わりなど、レオナルドの絵画作品には際立った点が多くみられる。これらレオナルドの革新的絵画技法の集大成といえるのが『モナ=リザ』『最後の晩餐』『岩窟の聖母』である[77]。
初期の絵画作品
レオナルドの画家としてのキャリアは、師ヴェロッキオとの合作『キリストの洗礼』に始まる。他にレオナルドの徒弟時代の作品として、2点の『受胎告知』がある。そのうち1点は縦14cm、横59cmの小さな絵画で、元々はロレンツォ・ディ・クレディの大きな祭壇画の飾絵だったものが散逸した作品である。もう1点の『受胎告知』は縦98cm、横217cmという大規模な作品となっている[78]。どちらの『受胎告知』も、フラ・アンジェリコの『受胎告知』などとよく似た伝統的な構図で描かれている。座した、あるいは跪いた聖母マリアを画面右に配し、背中の羽を高く掲げ、豪奢な衣装を身につけた横向きの天使が、純潔を意味するユリとともに画面左に配されている。大きな『受胎告知』(1472年 - 1475年、ウフィツィ美術館)は、かつてはギルランダイオの作品と考えられていたが、現在ではレオナルドの真作にほぼ間違いないと考えられている[79]。小さな『受胎告知』では、マリアは天使から眼を背け、両手を握りしめている。このポーズは神の意思への服従を象徴する。しかしながら大きな『受胎告知』のマリアは、このような服従を示すポーズをとっていない。予期せぬ天使の訪れで読書を中断させられたマリアの右手は、今まで読んでいた聖書に置かれ、左手は歓迎あるいは驚きを意味する、立てた状態で描かれている[52]。冷静ともいえるこの若きマリアのポーズは、神の母たる役割に服従するのではなく、自信に満ちて受け入れることを意味している。若きレオナルドはこの『受胎告知』でマリアを神格化せずに、人間の女性として描いた。これは神の顕現において人間が果たす役割を認識していることを表している[注釈 26]。
1480年代の絵画作品
レオナルドは1480年代に、非常に重要な絵画2点の制作を引き受け、ほかに革新的な構成をもつ重要な絵画1点の制作を開始した。これら3点の絵画のうち2点は未完に終わり、残る1点が完成度合いや支払を巡って長い論争となった。未完に終わった絵画のうちの1点が『荒野の聖ヒエロニムス』で、美術史家リアナ・ボルトロンはこの絵画がレオナルドが不遇だった時代の作品ではないかとしており、その根拠としてレオナルドの日記の「生きることを学んできたつもりだったが、単に死ぬことを学んでいたらしい」という記述を挙げている[18]。
『荒野の聖ヒエロニムス』は描き始めの時点で放棄された作品だが、極めて異例な構成をもって描かれている[注釈 27]。ヒエロニムスは苦行者として画面中央一杯に描かれ、傾けられた顔はやや上を向いている。左膝は地面に付けられており、右手は画面端まで伸ばされ、視線は右手とは反対の方向に向けられている。J.ワッサーマンは、この作品にレオナルドが持つ解剖学の知識が反映されていると指摘した[81]。前面にはヒエロニムスの象徴である大きなライオンが寝そべり、その胴体と尾が別方向のカーブを描いている。背景に粗く描かれた岩地の風景が、ヒエロニムスの身体を浮かび上がらせている。
『荒野の聖ヒエロニムス』と同様に、大胆な構成、風景描写、さらには人間模様が描かれているのが『東方三博士の礼拝』(1481年、ウフィツィ美術館)で、サン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から依頼された作品だった。250cm四方で、非常に複雑な構成が採用されている。レオナルドは『東方三博士の礼拝』を制作するにあたって、線遠近法で描かれた背景の古代ローマ建築物など、数多くのドローイングと習作を描いた。しかしながら、1482年にロレンツォ・デ・メディチから、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァへの使者としてミラノ公国へ向かうように命じられたため、『東方三博士の礼拝』の制作も未完のまま放棄されてしまった[15][79]。
この時期に描かれたもう一つの重要な絵画が『岩窟の聖母』で、ミラノの聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼による作品である。『岩窟の聖母』は、ジョヴァンニ・アンブロージオ・デ・プレディスと弟エヴァンジェリスタが協力した作品で、既に完成していた祭壇を飾る大きな祭壇画として描かれた[82]。レオナルドはこの作品を、聖アンナ、聖母マリア、幼児キリストの聖家族が、天使に守られてのエジプトへの逃避中に幼い洗礼者ヨハネと出会うという、聖書の正典ではありえない場面に設定した。さらに幼いヨハネはキリストを救世主と認め、祈りを捧げている情景が表現されている。崩れ落ちそうな岩と渦巻く川を背景にして、青白い顔をした美しい人々が、幼児キリストを愛情を込めて崇拝している場面が描かれている[83]。『岩窟の聖母』は200cm × 120という比較的大規模な作品ではあるが、『東方三博士の礼拝』のような複雑な画面構成にはなっていない。『東方三博士の礼拝』にはおよそ15名の人物像と詳細な建築物が描かれているが、『岩窟の聖母』に描かれているのは4名の人物像と岩の洞窟だけである。『岩窟の聖母』は異なるヴァージョンで2点制作され、1点は聖母無原罪の御宿り信心会の礼拝堂に(ロンドンのナショナル・ギャラリーが現在所蔵しているヴァージョン)、もう1点はレオナルドの手元に留め置かれ、後にレオナルドと共にフランスへと持ち込まれている(現在パリのルーヴル美術館が所蔵するヴァージョン)。しかしながら聖母無原罪の御宿り信心会が正式に『岩窟の聖母』を入手、ないし制作代金を支払ったのは16世紀になってからのことだった[24][37]。
1490年代の絵画作品
レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかで最も有名な作品は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にある壁画『最後の晩餐』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている[84]」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『ヨハネによる福音書』の一場面をこの壁画に描き出したのである[24]。
レオナルドの同時代人のイタリア人著述家マッテオ・バンデッロ(1480年頃 - 1562年)は、レオナルドがこの『最後の晩餐』の製作中には、数日間夜明けから夕暮れまで食事も採らずに絵画制作に没頭し、その後3、4日はまったく絵筆を取らなかったとしている[85]。この制作手法は修道院長には理解し難いものであり、レオナルドがミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに苦情を申し立てるまで、上級幹部たちはレオナルドに迅速な作業を要求した。ヴァザーリは、レオナルドが『最後の晩餐』に描くキリストと裏切り者ユダの顔の表現に苦労しており、修道院長をモデルにするかもしれないとルドヴィーコに語ったと記している[86]。
完成した『最後の晩餐』は、構成、人物表現ともに非常に優れた作品だと評価されたが[87]、急速に状態が劣化していき、完成の百年後には「完全に崩壊した」といわれるようになった[88]。レオナルドはこの壁画を制作するにあたって信頼の置けるフレスコ技法ではなく、ジェッソを主材料とした下塗りの上からテンペラを用いたため、作品表面にカビが生じ、顔料の剥落を招いてしまったのである[89]。このような非常に大きな損傷を被っているとはいえ、『最後の晩餐』は最も模写や複製などが制作された絵画作品の一つであり、絵画だけではなく絨毯やカメオなど、様々な媒体に複製されている。
1500年代の絵画作品
レオナルドが16世紀に描いた小規模な肖像画で、ルーヴル美術館が所蔵する『モナ・リザ』は、世界で最も有名な絵画作品といわれている。描かれている女性が浮かべているとらえ所のない微笑が高く評価されている作品で、口元と目に表現された微妙な陰影がこの女性の謎めいた雰囲気をもたらしている。この微妙な陰影技法は「スフマート」あるいは「レオナルドの煙」と呼ばれている。ヴァザーリはこの『モナ・リザ』を直接目にしたことはなく、噂でしか知らなかったといわれているが、「その微笑は魅力的で、人間ではなく神が浮かべているようにみえる。この絵画を目にしたものは、まるでモデルが生きているかのように描かれていることに驚くことだろう」としている[90][注釈 28]。
その他『モナ・リザ』の特徴として、飾り気のない衣装、うねって流れるような背後の風景、抑制された色調、極めて高度な写実技法などが挙げられる。これらの特徴は顔料に油絵の具を使用することによってもたらされたものだが、絵画技法はテンペラと同様な手法が用いられており、画肌表面で顔料を混ぜ合わせた筆あとはほとんど見られない[注釈 29]。ヴァザーリはレオナルドを「他者を絶望、落胆させるような、自信に満ちた芸術家」として、その絵画技術を絶賛している[93]。ルネサンス期に制作された板絵としては、『モナ・リザ』の保存状態は完璧に近く、修復加筆の痕跡もほとんど見られない[94]。
自然の風景の中に人物像を描くという『聖アンナと聖母子』の構成は、ジャック・ワッサーマンが「息をのむような美しさ」としており[95]、『荒野の聖ヒエロニムス』の傾いた人物像を髣髴とさせる。『聖アンナと聖母子』が群を抜いている点は、二人の人物が斜めに重ねあわされている構図にある。母アンナの膝に座る聖母マリアが、自身が将来遭遇する受難の象徴である子羊を手荒に扱うキリストをたしなめようと、身体を傾けて腕を伸ばしている[24]。『聖アンナと聖母子』も多くの模写が制作された絵画で、ミケランジェロ、ラファエロ、アンドレア・デル・サルトらにも影響を与え[96]、さらにはその弟子であるヤコポ・ダ・ポントルモ、コレッジョらにも影響を与えた。また、『聖アンナと聖母子』の画面構成はヴェネツィアの画家ティントレットやパオロ・ヴェロネーゼらが好んで採用した。
ドローイング
レオナルドは多作な画家ではなかったが、多くのデッサンやドローイングを残しており、その手稿にはレオナルドが興味をもったあらゆる事象の小さなスケッチや詳細なドローイングで埋め尽くされている。現存するデッサンは900種とも言われている。絵画作品の習作や下絵も多く現存しており、『東方三博士の礼拝』『岩窟の聖母』『最後の晩餐』などの習作であると特定できるものもある[97]。制作日時が判明している最初期のドローイングは1473年の『アルノ川の風景』で、川、山、モンテルーポ城、農地が極めて詳細に描かれている[18][97]。レオナルドが描いたドローイングの中で有名な作品として、人体の調和を表現した『ウィトルウィウス的人体図』(アカデミア美術館)、『岩窟の聖母』の習作『天使の頭部』(ルーヴル美術館)、植物が描かれた習作『ベツレヘムの星』(ウィンザー城ロイヤル・コレクション)、160cm ×100cmの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』(ナショナル・ギャラリー)などがある[97]。色つきの紙に黒チョークで描かれた『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』には、陰影表現に『モナ・リザ』に見られるスフマート技法が用いられている。この『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を直接の習作として描かれた絵画作品は存在しないともいわれているが、ルーヴル美術館が所蔵する『聖アンナと聖母子』は構成がよく似ている[98]。
実在の人物をモデルとしていると思われるものの、大げさに誇張して描かれた「カリカチュア」と呼ばれる多くのドローイングがある。ヴァザーリは、レオナルドは興味を惹かれる容貌の持ち主を見かけると、一日中その後を着いてまわって観察し続けたと記している[99]。美しい少年を描いた習作も数多く存在する。弟子のサライに関連するものも多いが、いわゆる「ギリシア人風の横顔」と称される、希少かつ高く評価されている習作がある[注釈 30]。これら端整な「ギリシア人風の横顔」は、レオナルドの戦士を描いた習作と好対照であるといわれることもある[97]。また、サライは仮装のような装束で描かれていることも多い。レオナルドはショーや行列の演出を任されることもあり、これらはそのための習作だった可能性もある。その他に衣服の習作もあり、なかには極めて詳細に描かれたものも存在している。レオナルドは初期の作品から優れた衣服の表現技法を見せている。1479年にレオナルドがフィレンツェで描いた、猟奇的ともいえるスケッチがある。ロレンツォ・デ・メディチの弟ジュリアーノが暗殺されたパッツィ家の陰謀に加担したベルナルド・バロンチェッリが、絞首刑に処せられた場面を描いたスケッチである[97]。このスケッチにはレオナルドが流麗な鏡文字で書いた、バロンチェッリが処刑されたときに身につけていた衣服のことが記されている。
ギャラリー
以下は、記事本文中で使用している絵画作品以外の、レオナルドの「真作 (Universally accepted)」、あるいは「ほぼ真作 (Generally accepted)]とされている絵画作品である。
-
『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』、1476年 - 1478年頃(諸説あり)、ナショナル・ギャラリー・オブ・アート。
-
『ブノアの聖母』、1479年 - 1480年頃(諸説あり)、エルミタージュ美術館。
-
『リッタの聖母』、1481年 - 1497年頃(諸説あり)、エルミタージュ美術館、他者との合作という説もある。
-
『音楽家の肖像』、1485年頃(諸説あり)、アンブロジアーナ図書館。
-
『白貂を抱く貴婦人』、1490年頃、チャルトリスキ美術館。
-
『ミラノの貴婦人の肖像』、1496年 - 1497年頃(諸説あり)、ルーヴル美術館。
-
『サルバトール・ムンディ』、1504年 - 1507年頃(諸説あり)、プライベートコレクション。
注釈
- ^ 作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。その多くが木の板に描かれた板絵だが、壁画、大規模なドローイング、そして絵画制作の下準備として描かれた下絵2点も、絵画作品15点の中に含まれている。絵画以外でレオナルド自身の手によるとされている作品は数多い。
- ^ レオナルドの構想に必要とされる金属工学や科学技術は、ルネサンス時代にはほとんど存在していなかった。
- ^ レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。
- ^ レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録されている(Angela Ottino della Chiesa in Leonardo da Vinci, and Reynal & Co., Leonardo da Vinci (William Morrow and Company, 1956))。この日記に記されている日付はユリウス暦によるものである。この時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は午後9時40分頃ということになる。当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記されている4月15日という日付は、夜中の12時を日付の境界とする考え方では4月14日ということになる。この日付を現在のグレゴリオ暦に換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である[13]。
- ^ レオナルドの母親カテリーナは、中東頃あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している[16]。ファルコーニは、中東に起源を持つ人々の60%に見られる渦巻状の指紋のパターンが、レオナルドの指紋にも存在すると主張している。ただし、このレオナルドが中東人種の血を引いているという説を否定する研究者も存在する。カリフォルニア大学アーヴァイン校の犯罪社会学准教授サイモン・コールは「わずか1本の指から採取された指紋で、その人物の人種を推測することは不可能だ」としている。
- ^ 資料から確認できるレオナルドの幼少期の正式な教育記述は、祖父母からのイタリア語の教育のみである。
- ^ 正式な教育を受けたのは成人(1496年43歳前後)した後であるが、数学者ルカ・パチョーリのもとで数学(純粋数学)、複式簿記(会計学)を教わった(レオナルドは、手稿に弟子のサライ(後述)の無駄遣いなど、会計学に基づいた手記を記している。)。これがレオナルドの最初で最後の正式な教育である。成人の頃には既に学者並みの知識や教養を得ていたと伝わる。当時の科学者たちから、正式な教育を施されていないレオナルドは一生涯に渡り認められる事はなかった。レオナルドを唯一理解し認めたのは、解剖学を教えた師・芸術家アンドレア・デル・ヴェロッキオと、純粋数学と会計学を教えた第二の師とも呼べる数学者ルカ・パチョーリのみであり、生前時のレオナルドのバチカンや科学者たちの評価は、異端児・異端者『悪魔的』である。
- ^ ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。
- ^ 1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている[15]。
- ^ このドローイングは、マドリードのウフィツィ美術館が所蔵している。Drawing No. 8P.
- ^ ルネサンス期のフィレンツェでは、同性愛は法的に禁止されていた。
- ^ ガレアッツォ・マリア・スフォルツァの暗殺の混乱の中、当主ジャン・ガレアッツォの幼弱に乗じて政権を掌握。 文化の庇護者を自負し、芸術家をミラノ宮廷に集める。
- ^ ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。
- ^ ここでマントヴァ候夫人イザベルラ・デステの肖像画のデッサンをとる
- ^ 2005年になって、軍事地理学部局として100年にわたって使用されていた建物の修復中に、レオナルドが使用していたこの工房が発見されたOwen, Richard (2005年1月12日). “Found: the studio where Leonardo met Mona Lisa”. London: The Times 2010年1月5日閲覧。
- ^ この時期は芸術より科学技術の研究に没頭していたようだ[39]。
- ^ 『ダヴィデ像』の設置場所を決定する委員会は、レオナルド、ボッティチェッリら多くの芸術家も参加した、総勢30名のフィレンツェ市民で構成されていた[41]。
- ^ マルコ・ドッジョーノは『最後の晩餐』の模写でも知られている。
- ^ 『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている[43]。レオナルドが描いた『アンギアーリの戦い』は、下絵に描かれたスケッチと作品中央部分ののみを描いた数点の模写でしか知られていない。模写の中でおそらく最も精密に描かれているのはピーテル・パウル・ルーベンスの手によるものである[44]。
- ^ この絡繰仕掛けのライオンがいつ制作されたのかは不明だが、フランソワ1世のリヨン入城時に、フランソワ1世と教皇レオ10世の和平交渉の仲立ちとして使用されたと考えられている。ライオンはラテン語でレオであり、ローマ教皇レオ10世の、フランス王の紋章であるユリはフランス王フランソワ1世の象徴である。このライオンは復元されて、現在ボローニャの博物館で展示されている[48]。
- ^ クルーの館は、現在博物館として使用されている。
- ^ レオナルドが死去した日に、クルーの館から旅程で二日間かかるサン=ジェルマン=アン=レーから王令が出されている。このことが、フランソワ1世がレオナルドの最期を看取っていないという証拠となっている。ただし、ホワイトの『最初の科学者レオナルド』(Leonardo: The First Scientist)では、この布告にフランソワ1世の署名がないことを指摘している。
- ^ レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。
- ^ 上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。
- ^ 1498年にスフォルツァ城で開催された公開討論会では、パチョーリとダ・ヴィンチは同席した。討論会のテーマは、芸術を学問と呼べるかについてであり、レオナルドは芸術が数学に基づき科学的根拠を持つと主張した[63]。
- ^ イギリス人美術史家マイケル・バクサンドールは、伝統的な絵画に描かれた「受胎告知」で、聖母マリアの「賞賛に値する態度」あるいは反応を、動揺、沈思、問いかけ、服従、賞賛の5つに大別している。しかしながら、レオナルドの『受胎告知』のマリアは、これら伝統的な描写と合致してはいない[80]。
- ^ 『荒野の聖ヒエロニムス』は18世紀に女流画家アンゲリカ・カウフマンが所有していたが、後に切断されてしまった。後世になって主要な2枚の断片が屑屋と靴屋で見つかり、修復されて現在に至っている[81]。ただし、作品の外周部は失われたものとみなされている。
- ^ ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある[24]。『モナ・リザ』を高解像度カメラで解析したパスカル・コットは、オリジナルの『モナ・リザ』には眉毛とまつげが存在していたが、徐々に消えていってしまったと主張している[91]。
- ^ ジャック・ワッサーマンは「比類ない画肌処理」と呼んでいる[92]。
- ^ 「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。
- ^ 左利きで先割れの羽ペンを使用する場合、左から右へと文字を綴ることは非常に難しい。
- ^ 資料から確認できるレオナルドの唯一の正式な教育記録である。レオナルドはこの頃、1496年43歳前後。
- ^ 正式な教育を施されていないレオナルドのバチカンや科学者たちの評価は、異端児・異端者『悪魔的』であり、自らが研究の助手をおこなう以外にレオナルドの才能が認められる術がなかった。
- ^ 諸説あるが、この時フィエーゾレの街の壁に飛行実験成功を記念する金属製の記念額があったことを証拠にレオナルドらの飛行実験は成功したのではないかと唱える者もいる。これが事実ならば、レオナルドとマシニは人類の歴史に於いて、初の有人飛行を成し遂げた人物となる。
出典
- ^ Leonardo da Vinci Italian artist, engineer, and scientist Encyclopædia Britannica
- ^ Isaacson, Walter (2019). レオナルド・ダ・ヴィンチ 上(文春文庫). 文藝春秋. p. 44
- ^ “山口智子、リアル『ダ・ヴィンチ・コード』体験に大感激|”. ORICON NEWS (2018年4月14日). 2022年6月14日閲覧。
- ^ a b Gardner, Helen (1970). Art through the Ages. pp. 450 - 456
- ^ a b c Vasari, Boltraffio, Castiglione, "Anonimo" Gaddiano, Berensen, Taine, Fuseli, Rio, Bortolon.
- ^ Rosci, Marco (1977). Leonardo. p. 8
- ^ レオナルド・ダ・ヴィンチという神話. 角川選書. (2003)
- ^ a b c d レオナルド・ダ・ヴィンチ 1954, p. 3.
- ^ John Lichfield, The Moving of the Mona Lisa, The Independent, 2005-04-02 (accessed 2012-04-24)
- ^ Vitruvian Man is referred to as "iconic" at the following websites and many others:Vitruvian Man, Fine Art Classics, Key Images in the History of Science; Curiosity and difference; The Guardian: The Real da Vinci Code
- ^ “The Controversial Replica of Leonardo's Adding Machine”. 2011年5月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年12月22日閲覧。
- ^ Capra, pp.5–6
- ^ a b Vezzosi, Alessandro (1997). Leonardo da Vinci: Renaissance Man
- ^ a b His birth is recorded in the diary of his paternal grandfather Ser Antonio, as cited by Angela Ottino della Chiesa in Leonardo da Vinci, p. 83
- ^ a b c d e f della Chiesa, Angela Ottino (1967). The Complete Paintings of Leonardo da Vinci. p. 83
- ^ Falconi, Marta (2006年12月12日). “Experts Reconstruct Leonardo Fingerprint”. Associated Press (News ed.). USA: Fox 2010年1月6日閲覧。
- ^ 「ダビンチの子孫14人 85歳~1歳 伊・家系図で判明」『毎日新聞』朝刊2021年7月16日(国際面)2021年7月25日閲覧
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Bortolon, Liana (1967). The Life and Times of Leonardo. London: Paul Hamlyn
- ^ Rosci, p. 20.
- ^ Rosci, p.21
- ^ Brigstoke, Hugh (2001). The Oxford Companion the Western Art. Oxford, ENG, UK
- ^ Vasari, Giorgio (1568). Lives of the Artists. Penguin Classics. pp. 258–9
- ^ a b Rosci, p.13
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Arasse, Daniel (1998). Leonardo da Vinci
- ^ Rosci, p.27
- ^ Martindale, Andrew (1972). The Rise of the Artist
- ^ Vasari, p.258
- ^ della Chiesa, p.88
- ^ Priwer, Shana; Phillips, Cynthia (2006). The Everything Da Vinci Book. p. 245
- ^ a b Wasserman, Jack (1975). Leonardo da Vinci. pp. 77–78
- ^ Winternitz, Emanuel (1982). Leonardo Da Vinci As a Musician
- ^ Rossi, Paolo (2001). The Birth of Modern Science. p. 33
- ^ “Leonardo's Letter to Ludovico Sforza”. Leonardo-History. 2010年1月5日閲覧。
- ^ a b c d レオナルド・ダ・ヴィンチ 1954, p. 4.
- ^ Kemp, Martin (2004). Leonardo
- ^ Codex II, 95 r, Victoria and Albert Museum, as cited by della Chiesa p. 85
- ^ a b c d della Chiesa, p.85
- ^ Vasari, p.256
- ^ レオナルド・ダ・ヴィンチ 1954.
- ^ Gaetano Milanesi, Epistolario Buonarroti, Florence (1875), as cited by della Chiesa.
- ^ The minutes of the meeting were published in Giovanni Gaye, Carteggio inedito d'artisti del sec. XIV, XV, XVI, Florence, 1839–40, 2: 454–463. For an English translation of the document, see Seymour, Michelangelo's David, 140-155 and for an analysis, see Saul Levine, "The Location of Michelangelo's David: The Meeting of January 25, 1504, Art Bulletin 56 (1974): 31-49; N. Randolph Parks, "The Placement of Michelangelo's David: A Review of the Documents," Art Bulletin, 57 (1975) 560-570; and Rona Goffen, Renaissance Rivals: Michelangelo, Leonardo, Raphael, Titian, New Haven, 2002, 123–127.
- ^ a b c della Chiesa, p.86
- ^ Goldscheider, Ludwig (1967). Michelangelo: paintings, sculptures, architecture. Phaidon Press. ISBN 978-0-7148-1314-1
- ^ della Chiesa, pp.106–107
- ^ Georges Goyau, François I, Transcribed by Gerald Rossi. The Catholic Encyclopedia, Volume VI. Published 1909. New York: Robert Appleton Company. Retrieved on 2007-10-04
- ^ Miranda, Salvador (1998–2007). “The Cardinals of the Holy Roman Church: Antoine du Prat”. 2007年10月4日閲覧。
- ^ a b Vasari, p.265
- ^ “Reconstruction of Leonardo's walking lion” (Italian). 2010年1月5日閲覧。
- ^ Vasari, p.270
- ^ “Leonardo's will”. Leonardo-history. 2007年9月28日閲覧。
- ^ Mario Lucertini, Ana Millan Gasca, Fernando Nicolo (2004). Technological Concepts and Mathematical Models in the Evolution of Modern Engineering Systems. Birkhäuser. ISBN 978-3-7643-6940-8 2007年10月3日閲覧。
- ^ a b c d e f Hartt, Frederich (1970). A History of Italian Renaissance Art. pp. 127–333
- ^ a b c d e f g h i Rosci, Leonardo, chapter 1, the historical setting, pp.9–20
- ^ a b c Brucker, Gene A. (1969). Renaissance Florence
- ^ a b c d e Rachum, Ilan (1979). The Renaissance, an Illustrated Encyclopedia
- ^ Piero della Francesca, On Perspective for Painting (De Prospectiva Pingendi)
- ^ Leon Battista Alberti, De Pictura, 1435. On Painting, in English, De Pictura, in Latin Archived 2006年11月2日, at the Wayback Machine.
- ^ Hartt, pp.391–2
- ^ Williamson, Hugh Ross (1974). Lorenzo the Magnificent
- ^ Vasari, p.253
- ^ Vasari, p.257
- ^ Eugene Muntz, Leonardo da Vinci Artist, Thinker, and Man of Science (1898), quoted at Leonardo da Vinci's Ethical Vegetarianism
- ^ 池上 2019, p. 110.
- ^ Bambach, Carmen (2003年). “Leonardo, Left-Handed Draftsman and Writer”. New York: Metropolitan Museum of Art. 2009年11月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。
- ^ Cartwright Ady, Julia. Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475–1497. Publisher: J.M. Dent, 1899; Cartwright Ady, Julia. Isabella D'Este, Marchioness of Mantua, 1474–1539. Publisher; J.M. Dent, 1903.
- ^ http://www.corriere.it/cultura/13_ottobre_04/leonardo-mai-visto-una-collezione-privata-scoperto-ritratto-fatto-isabella-d-este-99d42288-2ccb-11e3-bdb2-af0e27e54db3.shtml
- ^ Sigmund Freud, Eine Kindheitserinnerung des Leonardo da Vinci, (1910)
- ^ ロレンツォ・デ・メディチの母ルクレツィアは。トルナブオーニ家出身。
- ^ “How do we know Leonardo was gay?”. Bnl.gov (2001年5月3日). 2011年10月29日閲覧。
- ^ Michael Rocke, Forbidden Friendships epigraph, p. 148 & N120 p.298
- ^ Rizzo, Alessandra (2011年2月2日). “Art Historian Silvano Vinceti Claims Male Model Behind Leonardo da Vinci's Mona Lisa”. Associated Press 2011年11月16日閲覧。
- ^ Leonardo, Codex C. 15v, Institut of France. Trans. Richter
- ^ della Chiesa, p.84
- ^ Gross, Tom. “Mona Lisa Goes Topless”. Paintingsdirect.com. 2007年4月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年9月27日閲覧。
- ^ Rossiter, Nick (2003年7月4日). “Could this be the secret of her smile?”. London: Telegraph.co.UK. 2007年10月3日閲覧。
- ^ (Daniel Arasse, Leonardo da Vinci, pp.11–15)
- ^ Frederick Hartt, A History of Italian Renaissance Art, pp.387–411.
- ^ della Chiesa, pp. 88, 90
- ^ a b Berti, Luciano (1971). The Uffizi. pp. 59–62
- ^ Baxandall, Michael (1974). Painting and Experience in Fifteenth Century Italy. pp. 49–56
- ^ a b Wasserman, pp.104–6
- ^ Wasserman, p.108
- ^ “The Mysterious Virgin”. National Gallery, London. 2007年9月27日閲覧。
- ^ 『ヨハネによる福音書』13:21。
- ^ Wasserman, p.124
- ^ Vasari, p.263
- ^ Vasari, p.262
- ^ della Chiesa, p.97
- ^ della Chiesa, p.98
- ^ Vasari, p.267
- ^ “The Mona Lisa had brows and lashes”. BBC News. (2007年10月22日) 2008年2月22日閲覧。
- ^ Wasserman, p.144
- ^ Vasari, p.266
- ^ della Chiesa, p.103
- ^ Wasserman, p.150
- ^ della Chiesa, p.109
- ^ a b c d e f g Popham, A.E. (1946). The Drawings of Leonardo da Vinci
- ^ della Chiesa, p.102
- ^ Vasari, p.261
- ^ “Sketches by Leonardo”. Turning the Pages. British Library. 2007年9月27日閲覧。
- ^ Windsor Castle, Royal Library, sheets RL 19073v-19074v and RL 19102 respectively.
- ^ 足達薫「ルカ・パチョーリ『神聖比例論』(一五〇九年)におけるマニエリスム的造形原理」『人文社会論叢. 人文科学篇』第14巻、弘前大学人文学部、2005年8月、12頁、ISSN 1344-6061、NAID 110001838649。
- ^ 林羊歯代「フラ・ジョヴァンニ・ダ・ヴェローナの多面体 : ルーカ・パチョーリ著『神聖比例論』挿図の影響について」『イタリア学会誌』第59巻、イタリア学会、2009年、p.8-9、doi:10.20583/studiitalici.59.0_97、ISSN 0387-2947、NAID 110007467275。
- ^ 池上 2019, pp. 110–113.
- ^ O'Malley; Saunders (1982). Leonardo on the Human Body. New York: Dover Publications
- ^ della Chiesa, p.117
- ^ Capra, Fritjof. The Science of Leonardo; Inside the Mind of the Genius of the Renaissance. (New York, Doubleday, 2007)
- ^ [Leonardo da Vinci, Copulation, c. 1493, pen and ink. The Royal Collection, London][Mary Roach 2004 “Stiff: The Curious Lives of Human Cadavers” W.W. Norton & Company]
- ^ a b c Kenneth D. Keele, Leonardo da Vinci's Influence on Renaissance Anatomy, (1964)[1]
- ^ Mason, Stephen F. (1962). A History of the Sciences. New York, NY: Collier Books. p. 550
- ^ 『美術解剖学とは何か』株式会社トランスビュー、2020年7月30日、131頁。
- ^ Roger Masters (1996). Machiavelli, Leonardo and the Science of Power
- ^ Roger Masters (1998). Fortune is a River: Leonardo Da Vinci and Niccolò Machiavelli's Magnificent Dream to Change the Course of Florentine History
- ^ “The Leonardo Bridge Project”. Vebjorn-sand.com. 2011年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月29日閲覧。
- ^ Levy, Daniel S. (1999年10月4日). “Dream of the Master”. Time magazine. オリジナルの2007年9月12日時点におけるアーカイブ。 2007年9月27日閲覧。
- ^ Leonardo's Dream Machines
- ^ Cremante, 53
- ^ EasyReserve "Fiesole And Da Vinci's Airport"
- ^ Traveller "天才ダ・ヴィンチの美しき技術遺産を巡る Walking ダ・ヴィンチ設計の有人飛行装置が飛び立ったフィレンツェ近郊の山へ"
- ^ アレッサンドロ・ヴェッツォシ([訳]後藤淳一)『レオナルド・ダ・ヴィンチ』創元社、1998年11月、103頁
- ^ Vasari, p.255
- ^ Castiglione, Baldassare (1528). Il Cortegiano.
- ^ "Anonimo Gaddiani", elaborating on Libro di Antonio Billi, 1537–1542
- ^ Fuseli, Henry (1801). Lectures. II.
- ^ Rio, A.E. (1861). L'art chrétien.
- ^ Taine, Hippolyte (1866). Voyage en Italie.
- ^ Berenson, Bernard (1896). The Italian Painters of the Renaissance.
- ^ Henneberger, Melinda. “ArtNews article about current studies into Leonardo's life and works”. Art News Online. 2006年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月10日閲覧。
固有名詞の分類
思想家 |
森有正 慧能 レオナルド・ダ・ヴィンチ エピクロス マルシリオ・フィチーノ |
美術家 |
岸田劉生 土佐光起 レオナルド・ダ・ヴィンチ ピエール・ボナール 赤瀬川原平 |
イタリアの画家 |
ベルナルド・ダッディ サルヴァトル・ローザ レオナルド・ダ・ヴィンチ ベノッツォ・ゴッツォリ ピエトロ・カヴァリーニ |
航空パイオニア |
サミュエル・ラングレー アルプレヒト・ベルブリンガー レオナルド・ダ・ヴィンチ カルル・フリードリヒ・メールヴァイン ラガリ・ハサン・チェレビ |
16世紀の美術家 |
董其昌 アントニス・モル レオナルド・ダ・ヴィンチ フアン・デ・フランデス ルイス・デ・モラレス |
15世紀の美術家 |
吉山明兆 デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ レオナルド・ダ・ヴィンチ フアン・デ・フランデス ベノッツォ・ゴッツォリ |
- レオナルド・ダ・ヴィンチのページへのリンク