レオナルド・ダ・ヴィンチ 交友関係と影響

レオナルド・ダ・ヴィンチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 02:51 UTC 版)

交友関係と影響

フィレンツェでレオナルドを取り巻いていた芸術的、社会的背景

ロレンツォ・ギベルティが制作したサン・ジョヴァンニ洗礼堂の『天国への門』。当時のフィレンツェが誇る芸術作品で、その制作には多くの芸術家が参画した。

レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想、文化の中心地だった[18]。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、風景画の発展に多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、すでに老境に入っていた。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカフィリッポ・リッピ、彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア、建築家・著述家レオン・バッティスタ・アルベルティも60歳代だった。これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、アントニオ・デル・ポッライオーロミーノ・ダ・フィエゾーレ英語版らである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、ロレンツォ・デ・メディチの父親ピエロや伯父ジョヴァンニ・ディ・コジモ・デ・メディチ英語版の胸像は、本人に非常によく似ていると言われている[45][46][47][48]

また当時のフィレンツェは、写実的で感情豊かな人物像をフレスコで描いた画家マサッチオ、人物と建築物が複雑な構成で表現されたサン・ジョヴァンニ洗礼堂の金箔に彩られた東扉『天国への門』を制作した彫刻家ロレンツォ・ギベルティなど、ドナテッロと同時代の芸術家たちの作品で飾り立てられていた。ピエロ・デッラ・フランチェスカは空気遠近法の研究を推し進め[49]、科学的に正確な光の描写を絵画にもたらした最初の画家となった。これらの研究とレオン・バッティスタ・アルベルティの『絵画論』といった芸術論文が[50]、当時の若年の芸術家たちに大きな影響を与え、レオナルドも先人たちからの影響のなかで独自の観察眼や芸術観を培っていった[45][47][48]

マサッチオの『楽園追放英語版』(1425年ごろ、ブランカッチ礼拝堂壁画)は、裸身で取り乱すアダムとイヴを力強い造形で描いた作品である。光と陰の対比を用いて三次元的に人物を描写した『楽園追放』はレオナルドに大きな影響を与え、自身の作品でこの三次元的描写を発展させていくことになる。また、ドナテッロの彫刻『ダヴィデ』における人文主義的作風が、後のレオナルドの作品群、とくに『洗礼者ヨハネ英語版』(1513年 - 1516年、ルーヴル美術館所蔵)に影響を与えている[45][46]

『カーネーションの聖母』、1478年 - 1480年、アルテ・ピナコテークミュンヘン)。レオナルドが描いた初期の聖母子像。

フィレンツェで伝統的に好まれていた絵画分野に、聖母子を描いた小規模な祭壇画がある。当時、これらの祭壇画はリッピ、ヴェロッキオ、デッラ・ロッビア一族らの工房で制作された作品が多かった[45]。レオナルドが聖母子を描いた初期の作品に『カーネーションの聖母英語版』(1478年 - 1480年、アルテ・ピナコテーク)と『ブノアの聖母』(1478年頃、エルミタージュ美術館)がある。これらレオナルドが描いた聖母子は、基本的にはフィレンツェの伝統的な聖母子の作風に則っている。しかしながら『ブノアの聖母子』に顕著な聖母子をピラミッド型に配する構成は、伝統的な作風からは逸脱した表現となっている。後に同様の構成で描かれたレオナルドの作品に『聖アンナと聖母子』(1508年ごろ、ルーヴル美術館)がある[13]

レオナルドはボッティチェッリ(1445年ごろ - 1510年)、ギルランダイオ(1449年 - 1494年)、ペルジーノ(1450年ごろ - 1523年)と同時代人で、わずかに年少である[46]。レオナルドはこの3人と相弟子としてヴェロッキオの工房で出会い、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーに出入りした[13]。ボッティチェッリはとくにメディチ家に気に入られており、画家としての成功は約束されていたも同然だった。ギルランダイオとペルジーノはどちらも多作な画家で、後に大規模な工房を経営するにいたった。両者共に制作依頼主を満足させるだけの技量を持った芸術家で、ギルランダイオは大規模なフレスコ宗教画に裕福なフィレンツェ市民の肖像を描き入れた作品を、ペルジーノは甘美で無垢な多数の聖者や天使を描いた作品を、それぞれ得意としていた[45]

フーホ・ファン・デル・フースが描いた『ポルティナーリの三連祭壇画』中央パネル(1475年頃、ウフィツィ美術館)。フィレンツェのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ施薬院付属サンテディジオ教会の祭壇画用として制作された。

ボッティチェッリとギルランダイオは、ローマ教皇シクストゥス4世から、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂壁画制作の依頼を受けた。1479年にペルジーノがローマ教皇庁から、礼拝堂壁画制作の責任者に任じられて間もなくのことである。しかしながらこの栄誉ある壁画制作には、レオナルドは関与していない。レオナルドが依頼を受けた最初の重要な絵画制作は、1481年にサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧からの『東方三博士の礼拝英語版』だが、未完のままに終わっている[13]

レオナルドがヴェロッキオの工房で働いていた時期の1476年に初期フランドル派の画家フーホ・ファン・デル・フースの油彩画『ポルティナーリの三連祭壇画英語版』(1475年ごろ、ウフィツィ美術館)がフィレンツェに持ち込まれた。北方ヨーロッパの初期フランドル派が完成させた新たな絵画技法である油彩は、レオナルド、ギルランダイオ、ペルジーノら、フィレンツェで活動していた芸術家たちに多大な影響を与えた[46]。その後、シチリア出身の画家アントネッロ・ダ・メッシーナが油彩技法を身につけ、1479年にヴェネツィアを訪れた。当時のヴェネツィアで第一人者であった画家ジョヴァンニ・ベリーニがメッシーナから油彩技法を伝授され、たちまちのうちにヴェネツィアでも油彩による絵画制作が主流となった。そして、後にレオナルドもヴェネツィアを訪れることになる[46][48]

当時の代表的な建築家ドナト・ブラマンテアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ヴェッキオと同じように、レオナルドも集中形式の教会のデザインを試みた。多くの設計図や外観図がその手稿に残されているが、実現した計画はひとつもなかった[46][51]

ギルランダイオが描いたフレスコ画。左から、アントニオ・プッチ(en:Antonio di Puccio Pucci)、ロレンツォ・デ・メディチ、フランチェスコ・サセッティ(en:Francesco SassettFrancesco Sassetti)、ジュリオ・デ・メディチ

レオナルドがフィレンツェに在住していたときのフィレンツェの支配者はロレンツォ・デ・メディチだった。ロレンツォはレオナルドよりも3歳年長で、弟のジュリアーノは1478年に起きた、いわゆるパッツィ家の陰謀で暗殺された。後にレオナルドがメディチ家の使者として派遣されるミラノ公国を1479年から1499年まで統治したミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァは、レオナルドと同年の生まれである[46]

レオン・バッティスタ・アルベルティの紹介を受けてメディチ一族の邸宅を訪れたレオナルドは、哲学者で新プラトン主義の提唱者マルシリオ・フィチーノ、古典文学の注釈書の著者クリストフォロ・ランディーノ、ギリシア語教授でアリストテレスの著作の翻訳者ジョヴァンニ・アルギロプーロ英語版ら、当時第一流のルネサンス人文主義者たちの知遇を得た。また、メディチ家が主催するプラトン・アカデミーには、才能に溢れた若き哲学者ピコ・デラ・ミランドラの姿もあった[46][48][52]。後にレオナルドは手稿の余白に「メディチが私を創り、そしてメディチが私を台無しにした」と書き入れている。レオナルドが、ロレンツォの推挙によってミラノ公の宮廷に迎え入れられたのは間違いなく、なぜレオナルドがこのような謎めいた書込みを残したのかは分かっていない[13]

盛期ルネサンス三大巨匠」と並び称されるレオナルド、ミケランジェロ、ラファエロだが、この三名は同年代人ではない。ミケランジェロが生まれたときにレオナルドは23歳で、ラファエロが生まれたときにはレオナルドは31歳だった[46]。レオナルドは1519年に67歳で、ラファエロは1520年に37歳でそれぞれ死去しているが、長命を保ったミケランジェロが死去したのは1564年で88歳のことである[47][48]

私生活

マントヴァ侯妃イザベラ・デステの肖像習作。1500年、ルーヴル美術館

レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し[53]、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている[54][55]。レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者ルカ・パチョーリは、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している[注釈 20][57]。フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘で、マントヴァ侯妃イザベラとミラノ公妃ベアトリーチェの姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない[58]。レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していないと思われていた[13]。しかし2013年10月、スイス銀行の貴重品保管庫から彩色された肖像画が発見され、当局に押収された。レオナルド研究家であるペドレッティ教授の鑑定では、レオナルドの真筆であることはほぼ間違いないとみられている[59]

交友関係以外のレオナルドの私生活は謎に包まれている。とくにレオナルドの性的指向は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっている。最初にレオナルドの性的指向が話題になったのは16世紀半ばのことだった。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でもジークムント・フロイトが唱えた説が有名である[60]レオナルドともっとも親密な関係を築いたのは、おそらく弟子のサライとメルツィである。メルツィはレオナルドの死を知らせる書簡をレオナルドの兄弟に送った人物で、その書簡にはレオナルドがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていた。16世紀になって、このようなレオナルドの人間関係は性的なものだったのではないかという説が生まれた。[独自研究?]1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったレオナルド他3名の青年が、有名だった男娼と揉め事を起こしたとして、同性愛の容疑をかけられたという記録がある。この件は証拠不十分で放免されているが、容疑者の一人リオナルデ・デ・トルナブオーニがロレンツォ・デ・メディチの縁者であり[61]、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかという説もある[62]。この記録はレオナルドに同性愛者の傾向があったことを示唆しており、『洗礼者ヨハネ』や『バッカス』といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいる[63]

助手と弟子

『洗礼者ヨハネ』、1514年頃、ルーヴル美術館パリ)。ヨハネのモデルは弟子のサライだといわれている[64]

「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティがレオナルドの邸宅に住み込んだのは1490年である。その後1年足らずで、サライはレオナルドの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだ。サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充て、レオナルドはサライの不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」と論っている[65]。しかしながらレオナルドはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせている[66]。サライはアンドレア・サライという名前で多くの絵画を描いた。しかしながら、レオナルドがサライに「絵画について非常に多くのことを教えた[40]」が、レオナルドのほかの弟子たち、例えばマルコ・ドッジョーノ英語版ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ英語版らの作品に比べると、レオナルドの作品の贋作ばかりで、芸術的価値に劣るといわれている。1515年にサライは『モナ=ヴァンナ』として知られる、『モナ=リザ』の裸体ヴァージョンの絵画を描いている[67]。後にレオナルドが死去すると、サライは『モナ・リザ』を譲られた。サライはこの『モナ・リザ』は505リラの価値があると考えていたが、この評価額は当時の小さな肖像画としては異例なまでに高額だった[68]

レオナルドは1506年にロンバルディアの貴族の子息フランチェスコ・メルツィを弟子にした。メルツィはレオナルドお気に入りの弟子で、レオナルドがフランスへ移住したときにも同行し、レオナルドが死去するまで起居を共にしている[13]。メルツィはレオナルドの遺産として、芸術、科学の諸作品、写本、コレクションを贈られ、遺言執行人にも任命されていた。




注釈

  1. ^ 作品全体、あるいは作品の大部分をレオナルドが描いたと、ほとんどの美術史家に認められている現存するレオナルドの絵画作品は15点である。その多くが木の板に描かれた板絵だが、壁画、大規模なドローイング、そして絵画制作の下準備として描かれた下絵2点も、絵画作品15点の中に含まれている。絵画以外でレオナルド自身の手によるとされている作品は数多い。
  2. ^ レオナルドの構想に必要とされる金属工学や科学技術は、ルネサンス時代にはほとんど存在していなかった。
  3. ^ レオナルドが構想した実用的アイディアの多くが、ヴィンチのレオナルド博物館で展示されている。
  4. ^ レオナルドの出生は、父方の祖父セル・アントーニオの日記に「4月15日土曜日の、日が暮れてから3時間後に孫が生まれた」と記録されている(Angela Ottino della Chiesa in Leonardo da Vinci, and Reynal & Co., Leonardo da Vinci (William Morrow and Company, 1956))。この日記に記されている日付はユリウス暦によるものである。この時期のフィレンツェの日没は午後6時40分で、日没後3時間は午後9時40分ごろということになる。当時の一日の概念は日没から翌日の日没までだったため、日記に記されている4月15日という日付は、夜中の12時を日付の境界とする考え方では4月14日ということになる。この日付を現在のグレゴリオ暦に換算すると、レオナルドの誕生日は4月23日である[9]
  5. ^ レオナルドの母親カテリーナは、中東あるいは「地中海沿岸地方」の出身の農奴階級だといわれることがある。ヴィンチのレオナルド博物館館長アレッサンドロ・ヴェゾーシは、レオナルドの父親ピエロがカテリーナという名前の、中東出身の農奴を所有していた証拠の存在を指摘している。レオナルドが中東の血を引いているという説は、レオナルドの指紋をその作品から復元することに成功したマルタ・ファルコーニが支持している[12]。ファルコーニは、中東に起源を持つ人々の60%に見られる渦巻状の指紋のパターンが、レオナルドの指紋にも存在すると主張している。ただし、このレオナルドが中東人種の血を引いているという説を否定する研究者も存在する。カリフォルニア大学アーヴァイン校の犯罪社会学准教授サイモン・コールは「わずか1本の指から採取された指紋で、その人物の人種を推測することは不可能だ」としている。
  6. ^ ヴェロッキオが絵画制作を中止したこととレオナルドは無関係で、単にヴェロッキオが彫刻作品に専念するためだったという説もある。
  7. ^ 1472年以前からレオナルドがこの聖ルカ組合に所属していたことは、現存する1472年から1520年のかけてのギルドの支払記録からもほぼ確実視されている[11]
  8. ^ このドローイングは、マドリードウフィツィ美術館が所蔵している。Drawing No. 8P.
  9. ^ ルネサンス期のフィレンツェでは、同性愛は法的に禁止されていた。
  10. ^ ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』が鋳造されたのは1488年で、ヴェロッキオが死去した後のことである。レオナルドがフランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作を開始したのは、『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の完成よりも前ということになる。
  11. ^ 2005年になって、軍事地理学部局として100年にわたって使用されていた建物の修復中に、レオナルドが使用していたこの工房が発見されたOwen, Richard (2005年1月12日). “Found: the studio where Leonardo met Mona Lisa”. London: The Times. http://www.timesonline.co.uk/tol/news/world/article411195.ece 2010年1月5日閲覧。 
  12. ^ 『アンギアーリの戦い』も『カッシーナの戦い』も未完に終わり現存していない。ミケランジェロが描いた『カッシーナの戦い』の全体像は、1542年にアリストトーレ・ダ・サンガッロの模写によって知られている[33]。レオナルドが描いた『アンギアーリの戦い』は、下絵に描かれたスケッチと作品中央部分ののみを描いた数点の模写でしか知られていない。模写の中でおそらくもっとも精密に描かれているのはピーテル・パウル・ルーベンスの手によるものである[34]
  13. ^ 『ダヴィデ像』の設置場所を決定する委員会は、レオナルド、ボッティチェッリら多くの芸術家も参加した、総勢30名のフィレンツェ市民で構成されていた[36]
  14. ^ マルコ・ドッジョーノは『最後の晩餐』の模写でも知られている。
  15. ^ この絡繰仕掛けのライオンがいつ制作されたのかは不明だが、フランソワ1世のリヨン入城時に、フランソワ1世と教皇レオ10世の和平交渉の仲立ちとして使用されたと考えられている。ライオンはラテン語でレオであり、ローマ教皇レオ10世の、フランス王の紋章であるユリはフランス王フランソワ1世の象徴である。このライオンは復元されて、現在ボローニャの博物館で展示されている[41]
  16. ^ クルーの館は、現在博物館として使用されている。
  17. ^ レオナルドが死去した日に、クルーの館から旅程で二日間かかるサン=ジェルマン=アン=レーから王令が出されている。このことが、フランソワ1世がレオナルドの最期を看取っていないという証拠となっている。ただし、ホワイトの『最初の科学者レオナルド』(Leonardo: The First Scientist)では、この布告にフランソワ1世の署名がないことを指摘している。
  18. ^ レオナルドの遺言どおりに、会葬者として参列した60名の貧者全員に、レオナルドの遺産から施しが与えられた。
  19. ^ 上質の素材が使用されていたこの黒いマントは既製品だったが、豪華な毛皮の縁飾りは別途追加されたものだった。この黒のマントが遺贈されたのは、この女性がレオナルドの葬式に着用する喪服に困らないように配慮する意図もあった。
  20. ^ 1498年にスフォルツァ城で開催された公開討論会では、パチョーリとダ・ヴィンチは同席した。討論会のテーマは、芸術を学問と呼べるかについてであり、レオナルドは芸術が数学にもとづき科学的根拠を持つと主張した[56]
  21. ^ イギリス人美術史家マイケル・バクサンドールは、伝統的な絵画に描かれた「受胎告知」で、聖母マリアの「賞賛に値する態度」あるいは反応を、動揺、沈思、問いかけ、服従、賞賛の5つに大別している。しかしながら、レオナルドの『受胎告知』のマリアは、これら伝統的な描写と合致してはいない[73]
  22. ^ 『荒野の聖ヒエロニムス』は18世紀に女流画家アンゲリカ・カウフマンが所有していたが、後に裁断されてしまった。後世になって主要な2枚の断片が屑屋と靴屋で見つかり、修復されて現在に至っている[74]。ただし、作品の外周部は失われたものとみなされている。
  23. ^ ヴァザーリが『モナ・リザ』を直接目にしたことがあるかどうかについては議論となっている。未見であるとする説の根拠は、ヴァザーリが『モナ・リザ』の眉毛に言及していることが主となっている。ダニエル・アラッセは著書『レオナルド・ダ・ヴィンチ』で、レオナルドは『モナ・リザ』に眉毛を描いていたが、後世に除去された可能性について述べている。16世紀半ばでは眉毛を抜くことが一般的だったという説もある[19]。『モナ・リザ』を高解像度カメラで解析したパスカル・コットは、オリジナルの『モナ・リザ』には眉毛とまつげが存在していたが、徐々に消えていってしまったと主張している[84]
  24. ^ ジャック・ワッサーマンは「比類ない画肌処理」と呼んでいる[85]
  25. ^ 「ギリシア人風の横顔」には額から高い鼻先までまっすぐにつながった横顔を持つ少年が描かれている。これは古代ギリシア彫刻に多くみられる特徴となっている。
  26. ^ 左利きで先割れの羽ペンを使用する場合、左から右へと文字を綴ることは非常に難しい。
  27. ^ 諸説あるが、この時フィエーゾレの街の壁に飛行実験成功を記念する金属製の記念額があったことを証拠にレオナルドらの飛行実験は成功したのではないかと唱える者もいる。これが事実ならば、レオナルドとマシニは人類の歴史に於いて、初の有人飛行を成し遂げた人物となる。

出典

  1. ^ a b Gardner, Helen (1970). Art through the Ages. pp. 450 - 456 
  2. ^ a b c Vasari, Boltraffio, Castiglione, "Anonimo" Gaddiano, Berensen, Taine, Fuseli, Rio, Bortolon.
  3. ^ Rosci, Marco (1977). Leonardo. p. 8 
  4. ^ レオナルド・ダ・ヴィンチという神話. 角川選書. (2003) 
  5. ^ John Lichfield, The Moving of the Mona Lisa, The Independent, 2005-04-02 (accessed 2012-04-24)
  6. ^ Vitruvian Man is referred to as "iconic" at the following websites and many others:Vitruvian Man, Fine Art Classics, Key Images in the History of Science; Curiosity and difference; The Guardian: The Real da Vinci Code
  7. ^ The Controversial Replica of Leonardo's Adding Machine”. 2011年5月29日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年12月22日閲覧。
  8. ^ Capra, pp.5–6
  9. ^ a b Vezzosi, Alessandro (1997). Leonardo da Vinci: Renaissance Man 
  10. ^ a b His birth is recorded in the diary of his paternal grandfather Ser Antonio, as cited by Angela Ottino della Chiesa in Leonardo da Vinci, p. 83
  11. ^ a b c d e f della Chiesa, Angela Ottino (1967). The Complete Paintings of Leonardo da Vinci. p. 83 
  12. ^ Falconi, Marta (2006年12月12日). “Experts Reconstruct Leonardo Fingerprint”. Associated Press (News ed.). USA: Fox. http://www.foxnews.com/wires/2006Dec01/0,4670,LeonardoapossFingerprint,00.html 2010年1月6日閲覧。 
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r Bortolon, Liana (1967). The Life and Times of Leonardo. London: Paul Hamlyn 
  14. ^ Rosci, p. 20.
  15. ^ Rosci, p. 21.
  16. ^ Brigstoke, Hugh (2001). The Oxford Companion the Western Art. Oxford, ENG, UK 
  17. ^ Vasari, Giorgio (1568). Lives of the Artists. Penguin Classics. pp. 258–9 
  18. ^ a b Rosci, p.13
  19. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t Arasse, Daniel (1998). Leonardo da Vinci 
  20. ^ Rosci, p.27
  21. ^ Martindale, Andrew (1972). The Rise of the Artist 
  22. ^ Vasari, p.258
  23. ^ della Chiesa, p.88
  24. ^ Priwer, Shana; Phillips, Cynthia (2006). The Everything Da Vinci Book. p. 245 
  25. ^ a b Wasserman, Jack (1975). Leonardo da Vinci. pp. 77–78 
  26. ^ Winternitz, Emanuel (1982). Leonardo Da Vinci As a Musician 
  27. ^ Rossi, Paolo (2001). The Birth of Modern Science. p. 33 
  28. ^ Leonardo's Letter to Ludovico Sforza”. Leonardo-History. 2010年1月5日閲覧。
  29. ^ Kemp, Martin (2004). Leonardo 
  30. ^ Codex II, 95 r, Victoria and Albert Museum, as cited by della Chiesa p. 85
  31. ^ a b c d della Chiesa, p.85
  32. ^ Vasari, p.256
  33. ^ Goldscheider, Ludwig (1967). Michelangelo: paintings, sculptures, architecture. Phaidon Press. ISBN 978-0-7148-1314-1 
  34. ^ della Chiesa, pp.106–107
  35. ^ Gaetano Milanesi, Epistolario Buonarroti, Florence (1875), as cited by della Chiesa.
  36. ^ The minutes of the meeting were published in Giovanni Gaye, Carteggio inedito d'artisti del sec. XIV, XV, XVI, Florence, 1839–40, 2: 454–463. For an English translation of the document, see Seymour, Michelangelo's David, 140-155 and for an analysis, see Saul Levine, "The Location of Michelangelo's David: The Meeting of January 25, 1504, Art Bulletin 56 (1974): 31-49; N. Randolph Parks, "The Placement of Michelangelo's David: A Review of the Documents," Art Bulletin, 57 (1975) 560-570; and Rona Goffen, Renaissance Rivals: Michelangelo, Leonardo, Raphael, Titian, New Haven, 2002, 123–127.
  37. ^ a b c della Chiesa, p.86
  38. ^ Georges Goyau, François I, Transcribed by Gerald Rossi. The Catholic Encyclopedia, Volume VI. Published 1909. New York: Robert Appleton Company. Retrieved on 2007-10-04
  39. ^ Miranda, Salvador (1998–2007). “The Cardinals of the Holy Roman Church: Antoine du Prat”. 2007年10月4日閲覧。
  40. ^ a b Vasari, p.265
  41. ^ Reconstruction of Leonardo's walking lion” (Italian). 2010年1月5日閲覧。
  42. ^ Vasari, p.270
  43. ^ Leonardo's will”. Leonardo-history. 2007年9月28日閲覧。
  44. ^ Mario Lucertini, Ana Millan Gasca, Fernando Nicolo (2004). Technological Concepts and Mathematical Models in the Evolution of Modern Engineering Systems. Birkhäuser. ISBN 978-3-7643-6940-8. http://books.google.com/?id=YISIUycS4HgC&pg=PA13&lpg=PA13&dq=leonardo+cellini+francois+philosopher 2007年10月3日閲覧。 
  45. ^ a b c d e f Hartt, Frederich (1970). A History of Italian Renaissance Art. pp. 127–333 
  46. ^ a b c d e f g h i Rosci, Leonardo, chapter 1, the historical setting, pp.9–20
  47. ^ a b c Brucker, Gene A. (1969). Renaissance Florence 
  48. ^ a b c d e Rachum, Ilan (1979). The Renaissance, an Illustrated Encyclopedia 
  49. ^ Piero della Francesca, On Perspective for Painting (De Prospectiva Pingendi)
  50. ^ Leon Battista Alberti, De Pictura, 1435. On Painting, in English, De Pictura, in Latin Archived 2006年11月2日, at the Wayback Machine.
  51. ^ Hartt, pp.391–2
  52. ^ Williamson, Hugh Ross (1974). Lorenzo the Magnificent 
  53. ^ Vasari, p.253
  54. ^ Vasari, p.257
  55. ^ Eugene Muntz, Leonardo da Vinci Artist, Thinker, and Man of Science (1898), quoted at Leonardo da Vinci's Ethical Vegetarianism
  56. ^ 池上 2019, p. 110.
  57. ^ Bambach, Carmen (2003年). “Leonardo, Left-Handed Draftsman and Writer”. New York: Metropolitan Museum of Art. 2009年11月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2009年10月18日閲覧。
  58. ^ Cartwright Ady, Julia. Beatrice d'Este, Duchess of Milan, 1475–1497. Publisher: J.M. Dent, 1899; Cartwright Ady, Julia. Isabella D'Este, Marchioness of Mantua, 1474–1539. Publisher; J.M. Dent, 1903.
  59. ^ http://www.corriere.it/cultura/13_ottobre_04/leonardo-mai-visto-una-collezione-privata-scoperto-ritratto-fatto-isabella-d-este-99d42288-2ccb-11e3-bdb2-af0e27e54db3.shtml
  60. ^ Sigmund Freud, Eine Kindheitserinnerung des Leonardo da Vinci, (1910)
  61. ^ ロレンツォ・デ・メディチの母ルクレツィアは。トルナブオーニ家出身。
  62. ^ How do we know Leonardo was gay?”. Bnl.gov (2001年5月3日). 2011年10月29日閲覧。
  63. ^ Michael Rocke, Forbidden Friendships epigraph, p. 148 & N120 p.298
  64. ^ Rizzo, Alessandra (2011年2月2日). “Art Historian Silvano Vinceti Claims Male Model Behind Leonardo da Vinci's Mona Lisa”. Associated Press. http://www.artdaily.com/index.asp?int_sec=2&int_new=44665 2011年11月16日閲覧。 
  65. ^ Leonardo, Codex C. 15v, Institut of France. Trans. Richter
  66. ^ della Chiesa, p.84
  67. ^ Gross, Tom. “Mona Lisa Goes Topless”. Paintingsdirect.com. 2007年4月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2007年9月27日閲覧。
  68. ^ Rossiter, Nick (2003年7月4日). “Could this be the secret of her smile?”. London: Telegraph.co.UK. 2007年10月3日閲覧。
  69. ^ (Daniel Arasse, Leonardo da Vinci, pp.11–15)
  70. ^ Frederick Hartt, A History of Italian Renaissance Art, pp.387–411.
  71. ^ della Chiesa, pp. 88, 90
  72. ^ a b Berti, Luciano (1971). The Uffizi. pp. 59–62 
  73. ^ Baxandall, Michael (1974). Painting and Experience in Fifteenth Century Italy. pp. 49–56 
  74. ^ a b Wasserman, pp.104–6
  75. ^ Wasserman, p.108
  76. ^ The Mysterious Virgin”. National Gallery, London. 2007年9月27日閲覧。
  77. ^ 『ヨハネによる福音書』13:21。
  78. ^ Wasserman, p.124
  79. ^ Vasari, p.263
  80. ^ Vasari, p.262
  81. ^ della Chiesa, p.97
  82. ^ della Chiesa, p.98
  83. ^ Vasari, p.267
  84. ^ “The Mona Lisa had brows and lashes”. BBC News. (2007年10月22日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/7056041.stm 2008年2月22日閲覧。 
  85. ^ Wasserman, p.144
  86. ^ Vasari, p.266
  87. ^ della Chiesa, p.103
  88. ^ Wasserman, p.150
  89. ^ della Chiesa, p.109
  90. ^ a b c d e f g Popham, A.E. (1946). The Drawings of Leonardo da Vinci 
  91. ^ della Chiesa, p.102
  92. ^ Vasari, p.261
  93. ^ Sketches by Leonardo”. Turning the Pages. British Library. 2007年9月27日閲覧。
  94. ^ Windsor Castle, Royal Library, sheets RL 19073v-19074v and RL 19102 respectively.
  95. ^ 池上 2019, pp. 110-113.
  96. ^ O'Malley; Saunders (1982). Leonardo on the Human Body. New York: Dover Publications 
  97. ^ della Chiesa, p.117
  98. ^ Capra, Fritjof. The Science of Leonardo; Inside the Mind of the Genius of the Renaissance. (New York, Doubleday, 2007)
  99. ^ [Leonardo da Vinci, Copulation, c. 1493, pen and ink. The Royal Collection, London][Mary Roach 2004 “Stiff: The Curious Lives of Human Cadavers” W.W. Norton & Company]
  100. ^ a b c Kenneth D. Keele, Leonardo da Vinci's Influence on Renaissance Anatomy, (1964)[1]
  101. ^ Mason, Stephen F. (1962). A History of the Sciences. New York, NY: Collier Books. p. 550 
  102. ^ Roger Masters (1996). Machiavelli, Leonardo and the Science of Power 
  103. ^ Roger Masters (1998). Fortune is a River: Leonardo Da Vinci and Niccolò Machiavelli's Magnificent Dream to Change the Course of Florentine History 
  104. ^ The Leonardo Bridge Project”. Vebjorn-sand.com. 2011年11月4日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年10月29日閲覧。
  105. ^ Levy, Daniel S. (1999年10月4日). “Dream of the Master”. Time magazine. オリジナルの2007年9月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070912033510/http://www.vebjorn-sand.com/dreamsofthemaster.html 2007年9月27日閲覧。 
  106. ^ Leonardo's Dream Machines
  107. ^ Cremante, 53
  108. ^ EasyReserve "Fiesole And Da Vinci's Airport"
  109. ^ Traveller "天才ダ・ヴィンチの美しき技術遺産を巡る Walking ダ・ヴィンチ設計の有人飛行装置が飛び立ったフィレンツェ近郊の山へ"
  110. ^ Vasari, p.255
  111. ^ Castiglione, Baldassare (1528). Il Cortegiano. 
  112. ^ "Anonimo Gaddiani", elaborating on Libro di Antonio Billi, 1537–1542
  113. ^ Fuseli, Henry (1801). Lectures. II. 
  114. ^ Rio, A.E. (1861). L'art chrétien. 
  115. ^ Taine, Hippolyte (1866). Voyage en Italie. 
  116. ^ Berenson, Bernard (1896). The Italian Painters of the Renaissance. 
  117. ^ Henneberger, Melinda. “ArtNews article about current studies into Leonardo's life and works”. Art News Online. 2006年5月5日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年1月10日閲覧。







固有名詞の分類

思想家 森有正  慧能  レオナルド・ダ・ヴィンチ  エピクロス  マルシリオ・フィチーノ
美術家 岸田劉生  土佐光起  レオナルド・ダ・ヴィンチ  ピエール・ボナール  赤瀬川原平
イタリアの画家 ベルナルド・ダッディ  サルヴァトル・ローザ  レオナルド・ダ・ヴィンチ  ベノッツォ・ゴッツォリ  ピエトロ・カヴァリーニ
航空パイオニア サミュエル・ラングレー  アルプレヒト・ベルブリンガー  レオナルド・ダ・ヴィンチ  カルル・フリードリヒ・メールヴァイン  ラガリ・ハサン・チェレビ
16世紀の美術家 董其昌  アントニス・モル  レオナルド・ダ・ヴィンチ  フアン・デ・フランデス  ルイス・デ・モラレス
15世紀の美術家 吉山明兆  デジデーリオ・ダ・セッティニャーノ  レオナルド・ダ・ヴィンチ  フアン・デ・フランデス  ベノッツォ・ゴッツォリ

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の関連用語

レオナルド・ダ・ヴィンチのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



レオナルド・ダ・ヴィンチのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのレオナルド・ダ・ヴィンチ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 Weblio RSS