冬の陣
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慶長19年(1614年)8月、方広寺の大仏鐘銘問題を契機として、江戸幕府と豊臣氏の緊張が高まった。豊臣側は豊臣恩顧の大名に参陣を呼びかけたが、輝元をはじめ呼びかけに応じた大名はいなかった。 慶長19年(1614年)10月11日、輝元は家康が大坂城攻撃のため駿府を出陣すると、本多正純が家康の出陣を輝元に報じ、毛利氏領内での舟留めと不審な往来船の船改めを要請した。輝元は直ちに了承して舟留めと船改めを実行し、10月24日には幕府奏者番の城昌茂に報告するとともに、万事幕府奉行衆の指図通りに行動すると述べた。しかし、九州から東上する船の内、どの船をどの程度の厳重さで舟留めすべきかが不明瞭であったため、輝元は駿府にいた宍戸元続と神村元種に対し、そのことを本多正純に入念に問い質し、可能であれば正純の墨付を入手するように命じた。 10月23日、家康が二条城に入ると、本多正純は10月24日に輝元へ奉書を送り、毛利氏の出陣を要請した。 11月3日、輝元は毛利秀元の留守を預かる毛利元鎮や椙杜元縁等に対し、秀元から出陣について申し下しがあれば留守衆の内の半分を東上させる一方で、椙杜元縁、西元由、三沢七郎兵衛など残る半分を留守居として長府に在番させ、もし万が一長府を維持できない変事があれば萩に引き上げること等を命じた。さらに11月5日には、秀元領内の廻船を一艘残らず周防国三田尻に回航させること、船子も有り次第に用立てること等を命じている。 11月9日、周防国岩国の吉川広家は輝元の側近である井原元以に上方の情勢を伝え、輝元の出陣を促した。翌11月10日に輝元は益田元祥と山田元宗に国許の差配を任せ、11月11日に萩を出陣し、周防国三田尻から海路で東上した。また、11月10日に徳川秀忠が伏見に到着すると、秀忠に従う酒井忠世、土井利勝、安藤重信は江戸にいる秀就と秀元に出陣を要請し、毛利氏は国許と江戸の両面から大坂城攻撃に加わることとなった。 11月14日夜、輝元は備前国児島郡下津井に、11月17日未明には摂津国兵庫に到着し、直ちに兵庫到着を本多正信・正純父子や、家康の軍に従軍する平川孫兵衛に報じた。また、萩の益田元祥と山田元宗には、自身の兵庫到着や家康の住吉着陣、秀就と秀元も近日に大坂に到着することを報じ、不足する兵粮と軍用金を急ぎ送るよう求めている。さらに、輝元は従軍する家臣等に黒印の掟を布告し、陣中の法度を厳とした。 しかし、輝元は長い航海の疲労からか病にかかってしまったため、井原元以を家康の陣中に遣わし、病により軍務がままならないことを謝した。家康は近日中に西上する秀就に大坂城攻撃を委ね、輝元は国許の仕置きなどをするように答え、秀就の到着を急がせることを促した。 11月21日、輝元は次男・就隆を名代として宍戸元続と共に家康に面会させ、同日夕刻には秀就へ西上を督促する書状を送った。また、11月22日には留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に対し、秀就が到着次第帰国すると報じた。 この頃、家康は大坂城の堀の水位を減少させて攻撃しやすくするために、摂津国西成郡江口に堰を築いて淀川を塞き止め、淀川の支流の伝法川に舟橋を架けるよう、輝元に対して要請した。 11月22日、要請を受けた輝元は留守居の繁沢元氏、益田元祥、山田元宗に使者を送って、普請に必要な兵糧と銀子を昼夜兼行で急送するように命じ、11月23日には後から東上した吉川広家と繁沢元景を江口に派遣し、工事を監督させた。さらに11月24日には、輝元自ら普請を督するために摂津国西宮へ陣を進めた。 11月29日、本多正純は宍戸元続を通じて、家康の意向により河内国茨田郡守口へ陣を進めるように要請したが、輝元はそのまま西宮へ滞陣を続けた。また、京都所司代の板倉勝重が江口普請場へ乱暴狼藉の禁令出すと、12月3日に輝元も現場の吉川広家、繁沢元景、毛利元倶に対し、西宮で他所の者と紛争し狼藉に及んだ者を捕らえた事例を伝え、よくよく乱暴狼藉を制止するよう命じた。 12月6日、秀就と秀元が大坂に到着し、茶臼山の家康や西宮の輝元と面会した後に大坂に着陣した。秀就が到着したため、12月8日に家康は柳生宗矩を使者として輝元に衣服等を贈って滞陣の労を謝し、帰国して療養することを勧めた。 12月10日、輝元は茶臼山の家康を訪ねて帰国の挨拶をした後に宍戸元続を伴って帰途につき、12月18日には周防国三田尻に到着した。輝元は秀元の命により東上する椙杜元縁に対して三田尻での面談を要請したが、元縁が病で面会に応じられなかったため、12月21日に輝元は秀元が吉川広家や福原広俊と衝突することを戒める訓諭を書状にしたためて元縁に与えた。 一方、大坂に残る毛利軍はその後もさほど戦闘を行わないまま、12月20日には徳川方と豊臣方の講和が結ばれ、大坂冬の陣は終結した。
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