ヨーロッパ戦勝記念日
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ヨーロッパ戦勝記念日(ヨーロッパせんしょうきねんび)は、第二次世界大戦において連合国がドイツを降伏させた日として、ヨーロッパにおける勝利を記念する日である。大半の連合国ではVEデー(英: Victory in Europe Day, V-E Day もしくは VE Day[1])とも呼ばれる日で、5月8日に当たる。ただしロシアなど旧ソ連諸国では、現地時間で5月9日を大祖国戦争戦勝記念日とする。
降伏文書調印


1945年5月7日午前2時41分、フランス・シャンパーニュ地方のランスにあった連合国遠征軍最高司令部 (Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force, SHAEF) で、フレンスブルク政府のカール・デーニッツ元帥から降伏の権限を受けたドイツ国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将が連合国軍司令長官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥とドイツの降伏文書に調印した[2]。文書での停戦発効時刻は中央ヨーロッパ時間で5月8日23時01分となっていた[3]。文書にはソ連軍代表のイワン・ススロパロフ大将が証人として署名している[2]。正式な降伏文書調印はここで成立した[4]。イギリスは当時西ヨーロッパ夏時間をとっていたため、停戦時刻は5月9日0時01分にあたる[3]。
しかし連合国側は、第一次世界大戦のヴェルサイユ条約がドイツ国民に受け入れられず、「背後の一突き」伝説を生み出してナチ党の台頭を招いたことを繰り返す可能性を感じていた。このため連合国は戦場での降伏文書だけでは足らず、降伏文書の批准文書が必要であると考えた。この調印を行う人物は陸海空軍三軍の最高指揮権を持つ人物、ドイツ国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥でなければならないと考えられていた[5]。ソ連側は調印式にアイゼンハワー元帥の参加を要請したが、かわりに副司令官でイギリスのアーサー・テッダー元帥を派遣した。また、別の文献によればスターリンから降伏文書の文面が事前に合意したものではないと抗議があったためともされる[6]。
5月8日、ベルリン市内のカールスホルストにおかれた赤軍司令部(ドイツの工兵学校兵舎を利用した)にカイテル元帥らドイツ代表が到着した[6]。調印式は同日正午すぎに予定されていたが、夜半までずれ込んだ[6]。これは調印文書をロシア語訳するのに時間がかかったという技術的理由があったからという説[7]と、連合軍側証人として参加する予定だったフランスのジャン・ド・ラトル・ド・タシニー大将が、正式代表として調印に参加する事を要求したためであったという説[8]、調印式の手順、席順、調印文書の文面の合意について時間がかかった説がある[9]。第二の説では、証人の署名欄を代表のすぐ下にして準代表としての形を整える事でラトル・ド・タシニも承諾したとされる。
停戦時刻を過ぎた午後11時から、赤軍のゲオルギー・ジューコフ元帥とテッダー元帥、そしてドイツ国防軍のヴィルヘルム・カイテル元帥が降伏文書に調印した。連合軍側証人としてはド・ラトル将軍のほか、アメリカのカール・スパーツ准将が副署している。調印時刻はベルリン時間5月9日午前0時15分だった[10]。
ただしヨーロッパで完全に戦闘が終結したのは、プラハの戦いが終結した5月11日の事だった。
戦勝国での反応
イギリス

1945年5月8日、各地で大規模な祝典が開催された。特にロンドンでは盛大で、この後も数年間にわたり食糧や衣服の配給が続いた厳しい経済環境の中、100万人以上の群集がカーニバルのような雰囲気の中で欧州戦線の終わりを祝った。トラファルガー広場からザ・マルを経てバッキンガム宮殿に至る地域は群集で埋まり、イギリス国王ジョージ6世とエリザベス王妃、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが宮殿バルコニーから人々に手を振った。この時、エリザベス王女とマーガレット王女はロンドンの群衆の中へ入って人々と共に祝うことを許された。
アメリカ合衆国
アメリカ合衆国では、ハリー・S・トルーマン大統領の61歳の誕生日だった。トルーマン大統領はこの勝利を、大戦のほとんどを指揮したものの1ヶ月弱前の4月12日に死去した故フランクリン・ルーズベルト前大統領に捧げる旨を語った。この日、前大統領の30日間の喪のため、国旗はまだ半旗であった。
ソ連
調印時刻のベルリン時間5月9日午前0時15分は、モスクワ夏時間では5月9日午前2時15分であった[11]。この為ロシアをはじめカザフスタン、ベラルーシなど多くの旧ソ連諸国では5月9日が対独戦勝記念日となっている。
以後ソ連、およびロシアはじめ旧ソ連諸国では毎年ごとに「大祖国戦争」の勝利を祝う軍事パレードなど、大々的な記念行事が催されている。
ドイツ側の反応

1945年5月8日までに、ドイツの北端及び南端のごく一部を除く大半は連合国軍に占領されていた。占領地ではすでにナチ体制は崩壊し、市民は占領下の生活を受け入れ、あるいはソ連軍などから逃れての逃避行の途上にあった。それゆえ、「5月8日」自体はほとんどのドイツ人にとって急激な変化の日とは受けとめられなかった。
後年、ドイツ連邦共和国はこの日を「第二次大戦終戦の日」("Ende des Zweiten Weltkrieges")と呼称している。ドイツでは、第二次世界大戦で終戦は「Stunde Null(零時)」であると認識される動きが強く、敗北より解放、ひいては再建のはじまりであると認識されている。
しかし、年月の経過に伴って認識は変わり、西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、1985年5月8日の終戦(Kriegsende)40周年記念日に『荒れ野の40年』という演説を行い、5月8日をナチ体制からの「解放の日」と呼んだ[12]。2005年の終戦60周年記念日には、ホルスト・ケーラー大統領が連邦議会での演説では初めて、戦闘で戦死したドイツ軍将兵、連合軍の空襲で死亡した一般市民にも言及し、彼らも「ナチズムと戦争の被害者」と述べ、追悼の意を表した。
対日戦勝記念日
連合国軍はドイツ降伏後も日本との戦争を続けたが、イギリスでの1945年8月15日未明、アメリカでの8月14日(日本標準時の8月15日)、日本政府はポツダム宣言受諾を国民へ知らせた(玉音放送)。そして、1945年9月2日に、日本政府は降伏文書に調印し、第二次世界大戦は終結した。
日本では、ポツダム宣言受諾を国民へ知らせた玉音放送の日である8月15日が「終戦の日」と受けとめられている。一方、連合国では、日本政府が降伏文書に調印した9月2日が「対日戦勝記念日」「VJデー」と呼ばれている。但し、連合国のうちソビエト連邦と中国、冷戦時代の東側諸国では、翌日の9月3日が対日戦勝記念日となっている。
脚注
- ^ 「イギリス空軍、VEデー75周年で祝賀飛行」 『航空ファン』通巻812号(2020年8月号)文林堂 P.15
- ^ a b フォルカー(2022年)、356頁。
- ^ a b フォルカー(2022年)、358頁。
- ^ 児島(1993:496-497)
- ^ 井上(2006:241-242)
- ^ a b c フォルカー(2022年)、389頁。
- ^ 井上(2006:242)
- ^ 児島(1993:497)
- ^ フォルカー(2022年)、392頁。
- ^ フォルカー(2022年)、396頁。
- ^ 井上(2006:242)。児島襄「ヒトラーの戦い」では11時30分となっている。児島(1993:499)
- ^ フォルカー(2022年)、402頁。
参考文献
- 井上茂子「ドイツ降伏の日はいつか? : 第二次世界大戦終結をめぐる神話と伝説(月例会発表要旨新入生歓迎記念講演)」(PDF)『上智史學』第51号、上智大学、2006年、pp. 241-242、NAID 110006426456。
- 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 10巻』文藝春秋社〈文春文庫〉、1993年。ISBN 978-4167141455。
- フォルカー・ウルリヒ著 著、松永美穂 訳『ナチ・ドイツ最後の8日間 1945.5.1-1945.5.8』すばる舎、2022年。ISBN 978-4799110621。
関連項目
外部リンク
- Victory address by Sir Winston Churchill, 1945-05-08, 3 PM (Danish site, English audio, Real Player)
- Victory address by King George VI, 1945-05-08, 9 PM (Danish site, English audio, Real Player)
- Second World War in NI online resource
ヨーロッパ戦勝記念日
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「第二次世界大戦期アイルランドの局外中立」の記事における「ヨーロッパ戦勝記念日」の解説
ウィンストン・チャーチルは1945年5月13日に行った連合国のヨーロッパでの勝利を祝う演説の中で、アイルランドに対して自制心を示した理由を次のように述べている。 私たちは決して彼らに暴力的な手段をとる事はなく、時にそれは非常に簡単で自然な事でした。 1940年5月、イギリスは中立のアイスランド(英語版)を占領していた。 数日後、デ・ヴァレラはチャーチルが「既に血塗られた」英愛関係に「もうひとつの新たな恐怖の章」を追加しなかった事を認める一方で、次のように尋ねた。 ...1年や2年ではなく、数百年間、敗北を受け入れず、魂を決して明け渡す事なく侵略に抗して単独で存在し続けた小国の存在を認める寛大さを彼の心の中に見出す事ができなかったのでしょうか?... さらに、彼は次のように付け加えた。 私は仮定の質問をしたいと思います。これは先の戦争以来、多くのイングランド人に投げかけた質問です。ドイツが戦争に勝利し、イングランドを侵略し占領したとします。そして、長い時間の経過と多くの苦闘の末に、最終的にドイツはイングランドの自由の権利を認めて解放しました。でも、イングランド全体ではなく南部の6つの郡を除いた部分の解放です。これら南部の6郡は、狭い海の入り口に位置していたとしましょう。ドイツはイングランド全体を抑え込み、ドーバー海峡を通じて独自の交通要衝を維持するため、この6つの郡を選び、自国で領有し続ける事を主張したのです。 さらにこのような経緯の後、ドイツが多くの小国の自由の味方である事を誇示できるような大戦争を戦っていたと仮定してみましょう。チャーチル氏は自国が他国と同じように自由への権利を持つと信じるイングランド人として、単に一部のための自由ではない自由への権利を持つでしょう。ドイツが6郡を占領して国家を分断したままの状況で、彼は分断されたイングランドを率いて、ドイツと共に十字軍に加わるでしょうか?私はチャーチル氏がそうするとは思えません。 ヨーロッパ戦勝記念日以降、戦争に関与しなかった事とその後のヨーロッパの進路を決定づける惨状の意味は、歴史的な議論の対象となっている。ヨーロッパのほとんどの国が共有していた惨状とアイルランドがそれを回避した事は、F・S・L・ライアンズによって次のように表現されている。 戦争の緊張と解放、共有された経験、苦しみの中の同志、未来についての新たな思考、これらすべてが彼女の前を通り過ぎてしまった。それは、ある民族全体がプラトンの洞窟の中で、命の火を背景にして生きる事を宣告されたような物で、彼らの背後を行き交う男女が目の前の壁に投げかけたゆらめく影から、外界で何が起こっているのかについての唯一の知識を得ていた。6年後、彼らが洞窟から日の光の中に姿を現した時、そこには新しくて広大な別世界が広がっていた。 R・ファニングがこれに応えて次のように書いている。 革命から内戦続きの上、依然としてIRAが暴力的な信条を提唱している状況で、人々は戦争の解放的価値に疑問を抱いていたかも知れない。
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