高松宮妃として
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1929年(昭和4年)に女子学習院本科を卒業。翌1930年(昭和5年)2月4日、18歳で宣仁親王と結婚。同日付で、勲一等に叙され、宝冠章を授与された。 その2か月後、昭和天皇の名代となった宣仁親王と共に14か月にわたり欧米を歴訪した。1930年(昭和5年)には日本赤十字社名誉社員の称号を受ける。 実母の實枝子を結腸癌で亡くしたのを機に癌の撲滅に関わるようになる。1934年(昭和9年)には、財団法人「がん研究会」(癌研・がん研)にラジウムを寄付し、その後も癌研を支援した。1949年(昭和24年)からは日本赤十字社の名誉副総裁に推戴された。 1968年(昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金の設立に関与するなど、生涯を通して癌撲滅に関与した。しかし、後に夫・宣仁親王を肺癌で失い、さらに晩年は自らも癌と闘うこととなった。 1987年(昭和62年)2月3日、宣仁親王と死別する。その6年後に発見された親王の日記は、1921年(大正10年)1月1日から1947年(昭和22年)11月にかけての、皇族および海軍の貴重な資料で、喜久子妃により1995年(平成7年)から『高松宮日記』(中央公論社)全8巻として刊行された。 1998年(平成10年)にはエッセイ『菊と葵のものがたり』(中央公論社)を上梓。 ハンセン病患者の救済運動にも関わり、1993年(平成5年)の高松宮記念ハンセン病資料館(後の国立ハンセン病資料館)の設立に尽力した。また、日仏会館の総裁として日仏交流にも尽くしたことが業績として挙げられる。 2000年(平成12年)6月16日に香淳皇后が崩御すると、喜久子妃は皇族最年長者となった。翌2001年(平成13年)12月の敬宮(愛子内親王)の誕生に際しては、もし男児が誕生しなければ、女性の天皇の皇位継承は日本の歴史から見て不自然ではないとする内容の手記を雑誌に寄稿している。 2003年(平成15年)に乳癌が発見され、翌年2月にはその摘出手術を受けた。一時体調は安定し6月には退院したが、8月に再度入院し10月18日には人工透析のための手術を受けていた。 2004年(平成16年)11月、行く末を気に掛けていた紀宮(後の黒田清子)の婚約が報道された時は、非常に喜んだという。 2004年(平成16年)12月18日午前4時24分、聖路加国際病院で敗血症のため薨去した、92歳没。93歳の誕生日のわずか8日前で、この日は清子内親王と黒田慶樹との婚約内定発表会見が予定されており、病室でもテレビ中継が視聴できるよう準備されていたが、妃の薨去によって会見は同年12月30日に延期された。 葬儀は豊島岡墓地で斂葬の儀が行われたのち、落合斎場で火葬され、同墓地内の墓所に葬られた。高松宮は後継となる子孫がいないため喜久子妃の薨去で廃絶。同宮家が祭祀を継いだ有栖川宮ともども、これで系統が途絶えることとなった。 母の實枝子から書道の有栖川流を継承し、文仁親王や正仁親王妃華子に自ら手ほどきをした。
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