高松宮妃としてとは? わかりやすく解説

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高松宮妃として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)

宣仁親王妃喜久子」の記事における「高松宮妃として」の解説

1929年昭和4年)に女子学習院本科卒業。翌1930年昭和5年2月4日18歳宣仁親王結婚同日付で、勲一等叙され宝冠章授与された。 その2か月後、昭和天皇名代となった宣仁親王と共に14か月にわたり欧米歴訪した。1930年昭和5年)には日本赤十字社名誉社員称号を受ける。 実母の實枝子結腸癌亡くしたのを機に癌の撲滅関わるうになる1934年昭和9年)には、財団法人がん研究会」(癌研・がん研)にラジウム寄付しその後も癌研を支援した1949年昭和24年)からは日本赤十字社名誉副総裁推戴された。 1968年昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金設立関与するなど、生涯通して撲滅関与した。しかし、後に夫・宣仁親王肺癌失い、さらに晩年は自らも癌と闘うこととなった1987年昭和62年2月3日宣仁親王死別する。その6年後に発見され親王日記は、1921年大正10年1月1日から1947年昭和22年11月にかけての、皇族および海軍貴重な資料で、喜久子妃により1995年平成7年)から『高松宮日記』(中央公論社)全8巻として刊行された。 1998年平成10年)にはエッセイものがたり』(中央公論社)を上梓ハンセン病患者救済運動にも関わり1993年平成5年)の高松宮記念ハンセン病資料館(後の国立ハンセン病資料館)の設立尽力したまた、日仏会館総裁として日仏交流にも尽くしたことが業績として挙げられる2000年平成12年6月16日香淳皇后崩御すると、喜久子妃は皇族最年長となった。翌2001年平成13年12月敬宮愛子内親王)の誕生に際しては、もし男児誕生しなければ女性天皇皇位継承日本の歴史から見て不自然ではないとする内容の手記を雑誌寄稿している。 2003年平成15年)に乳癌発見され翌年2月にはその摘出手術受けた一時体調安定し6月には退院したが、8月再度入院し10月18日には人工透析のための手術を受けていた。 2004年平成16年11月行く末気に掛けていた紀宮(後の黒田清子)の婚約報道された時は、非常に喜んだという。 2004年平成16年12月18日午前4時24分、聖路加国際病院敗血症のため薨去した、92歳没。93歳の誕生日のわずか8日前で、この日は清子内親王黒田慶樹との婚約内定発表会見が予定されており、病室でもテレビ中継視聴できるよう準備されていたが、妃の薨去によって会見同年12月30日延期された。 葬儀豊島岡墓地斂葬の儀が行われたのち、落合斎場火葬され、同墓地内の墓所葬られた。高松宮後継となる子孫がいないため喜久子妃の薨去廃絶。同宮家祭祀継いだ有栖川宮ともども、これで系統途絶えることとなった。 母の實枝子から書道有栖川流継承し文仁親王正仁親王妃華子に自ら手ほどきをした。

※この「高松宮妃として」の解説は、「宣仁親王妃喜久子」の解説の一部です。
「高松宮妃として」を含む「宣仁親王妃喜久子」の記事については、「宣仁親王妃喜久子」の概要を参照ください。

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