電力行政の誕生
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日本の電気事業は、1882年(明治15年)に藤岡市助らによって東京電燈が設立請願された時を以って誕生した。その後1887年(明治20年)には日本橋に発電所が建設され、付近のごく限られた地域ではあったが送電を開始している。その後神戸電燈や大阪電燈、名古屋電燈、京都電燈などが相次いで設立され、日清戦争の勝利によってその勢いはさらに加速した。 こうした会社の電気事業に対応する法制度は当初存在しなかった。1891年(明治24年)1月、帝国議会仮議事堂火災事故が発生し、仮議事堂が全焼した。この火災の原因は正確な所不明ではあるものの、電灯用の設備が漏電を起こして出火したのではないかという見方が出た。これを機に警視庁は保安上の対策を行う上で電気事業を監督するための法令を12月に制定した。この「電気営業取締規則」が日本における電力関連法規の第一号であった。その後全国各地で勃興する電力会社の監督を円滑に図るべく、監督官庁を警視庁から逓信省へと移し、1896年(明治29年)5月に「電気事業取締規則」が発令され、発電・送電・配電の全てにわたって電気事業者に保安などの義務を課すこととした。これ以降、電力行政は逓信省の流れをくむ商工省、通商産業省、経済産業省が掌ることになる。 1907年(明治40年)には、東京電燈が山梨県に本格的な水力発電所である駒橋発電所を稼働させた。電源開発の促進は、富国強兵の観点からも政策として促進され、1910年(明治43年)には全国の河川を対象に包蔵水力の調査を組織的かつ大規模に実施した第一次発電水力調査が行われた。同時に翌1911年(明治44年)には電気事業法が施行され、電気事業者の公益性が確立。同時に発電用水利権や土地立入権、山林伐採権などあらゆる権利が保障された。同法の成立以後、各電力会社は競って大規模なダム式水力発電所の建設を行い、福澤桃介による大井ダム(木曽川)の建設など、全国各地で発電用ダムの建設が行われた。 1914年(大正3年)には猪苗代水力電気が福島県の猪苗代第一発電所から東京都北区田端まで約225キロメートル区間にも及ぶ長距離高圧送電に成功し、送電技術も確立されていった。大正時代に入ると電力会社間の競争が激化し、やがて東京電燈、東邦電力、大同電力、宇治川電気、日本電力のいわゆる「五大電力会社」が誕生。これらを中心として木曽川、信濃川、飛騨川、天竜川、庄川などで水力発電の開発が進められていった。 ところが、こうした電力開発に対して、旧来から慣行水利権などを保有していた地元とのあつれきが激化し、各地で紛争が勃発した。特に大井ダム建設に伴う取水口水没に端を発した宮田用水事件(1924年 - 1939年)や、慣行流木権を巡り法廷闘争にまでもつれ込んだ庄川流木事件(1918年 - 1933年)などは、電力会社と地元の紛争が長期化した例として知られている。 こうした紛争に対して電気事業法では対応が出来なかった。このため河川行政を管轄する内務省は1926年(大正15年)8月26日に河川行政監督令を発令。ダムや水力発電所、及びそれに関連する施設で河川に設置するものは全て内務大臣の許認可とすることで一応の解決を見た。この内務省の電力行政への介入は、後の電力国家統制の端緒ともなった。
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