雨と市民生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 15:38 UTC 版)
尾鷲市民は一般に雨に慣れているとされる。他の地域の人々が「雨が降ってきた」と騒ぎ出すくらいの降り方では尾鷲市民は「小雨」としか認識しない。実際に気象庁の定める気象警報の1つ「大雨警報」の基準は、同じ三重県の四日市では3時間の雨量が110mm以上であるのに対し、尾鷲では210mm以上となっており、四日市の倍近く降らなければ尾鷲では大雨警報が発令されない。このため、周辺市町の学校では大雨により休校となっていたのに、尾鷲の子供たちだけは通学していた、という逸話も存在する。 多量の降雨があっても、尾鷲市街は隆起扇状地三角州の上に展開するため、中川や矢の川などの市街を流れる河川が氾濫することはめったにない。例えば、尾鷲測候所が1日の降水量の最高を記録した1968年(昭和43年)9月26日には806.0mmもの雨が降った(第3宮古島台風の影響)が、市街地北部の北川で濁流により河床が深く掘られた程度で市街地への浸水はなく、市民も一向に驚かなかったと伝えられる。24時間雨量が500㎜を超えるような豪雨があると、北海道や東北地方では多数の斜面災害をもたらすが、尾鷲では10年に1回の割合でこの程度の雨がある。ところが斜面災害の発生確率はこれよりも低く、降雨に対する「慣れ」によって地盤構造などの素因が変化していると考えられる。しかし1960年(昭和35年)10月7日の停滞前線に伴う集中豪雨は例外で、降り始めからの雨量が600mmを超えたことと満潮時刻が重なったことが原因で河川が氾濫し、死者・行方不明者2名、負傷者3名、家屋の流失・全半壊22世帯、床上浸水891世帯という被害を出している。また田畑はこの隆起扇状地三角州上ではないため、これらの河川によって江戸時代以来氾濫の被害を被ってきた。 市民は尾鷲の雨を「上からも下からも降る」または「下から降る」と表現する。雨の降り方があまりにも激しいため、地面から跳ね返る雨水も降雨と同じくらいの衝撃があるという意味である。夜間に尾鷲の雨を体験した宿泊客の中には、「雨がうるさすぎて眠れなかった」と感想を漏らす人もいるという。また「弁当忘れても傘忘れるな」ということわざがある。この言葉には、晴天の日でも突然雨が降り出すことがあるので油断してはならないという教訓が込められている。尾鷲市の児童は小学校の入学時に全員が1本の置き傘を配られ、急な雨に備えている。地域おこし協力隊員として尾鷲市に赴任した人物は、着任早々に市職員から長靴の購入を勧められたという経験をウェブサイトで綴っている。 通常の傘では尾鷲の雨の激しさに負けて壊れてしまうことがある。そこで尾鷲の強烈な雨に耐えうるよう、一般的な傘よりも骨の数を多くした「尾鷲傘」が特産品として作られてきた。尾鷲傘は明治創業の傘店・河合屋が考案したもので、骨の数は通常12本と一般的な傘の2倍もあり、傘に張る布も厚手で丈夫なものが用いられる。しかし伝統的な製法の尾鷲傘は、職人がいなくなってしまったため生産が停止している。 尾鷲の雨は地域の産業に好影響も与えている。市内で盛んな林業は豊富な降水量と長い日照時間が森林の生育に適しているという自然要因があり、特にスギとヒノキは尾鷲材(尾鷲杉・尾鷲ヒノキ)と呼ばれる良質材に加工される。ただし木を伐採すると急速に土壌侵食が進むため、尾鷲の人々は計画的に植林しながら森林と林業を維持してきた。また豊富な水力を活用し、又口川に建設されたクチスボダムでは水力発電が行われている。林業と並ぶ尾鷲市の基幹産業である漁業にも好影響を与えるという説があるが、確証は得られていない。
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