貞慶の来山~元弘の乱
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平安時代後期には末法思想(釈迦の没後2,000年目を境に仏法が滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに、未来仏である弥勒への信仰も高まり、皇族、貴族をはじめ当寺の弥勒仏へ参詣する者が多かった。永延元年(987年)、円融院の行幸(『百錬抄』)、寛弘4年(1007年)、藤原道長の参詣(『御堂関白記』)などが記録に残っている。 鎌倉時代初期の建久4年(1193年)には、日本仏教における戒律の復興者として知られる興福寺出身の僧・貞慶が笠置寺に住している。貞慶は藤原通憲(信西)の孫にあたり、鎌倉時代に台頭した新仏教(浄土教など)に対する旧仏教側の代表的な僧である。学僧として名が高かったが、南都の仏教の退廃を嘆き、笠置に隠棲した。以後、承元2年(1208年)、観音寺(海住山寺)に移るまでの十数年間を笠置で過ごしている。この時期に寺は最盛期を迎え、伽藍が整備された。建久5年(1194年)には般若台が建立される。これは『大般若経』を安置する六角形の堂であった。建久7年(1196年)には重源によって梵鐘(現存)や『宋版大般若経』が施入され、建久9年(1198年)には木造の十三重塔が建立された。元久元年(1204年)には源頼朝が礼堂(弥勒磨崖仏を礼拝するための建物)の再興費として砂金を寄進している。寛喜2年(1230年)には東大寺の学僧・宗性が入寺した。 元弘元年(1331年)8月、鎌倉幕府打倒を企てていた後醍醐天皇は御所を脱出して笠置山に篭り、挙兵した(元弘の乱)。笠置山は同年9月に落城、後醍醐は逃亡するが捕えられ、隠岐国へ流罪になった。この戦乱時の兵火で笠置寺は炎上し、弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面が剥離してしまった。笠置山には弥勒磨崖仏の他に薬師石、文殊石、虚空蔵石、両界曼荼羅石などがあり、かつてはそれぞれに線刻の仏像や曼荼羅図が刻まれていたが、兵火でほとんどが失われ、わずかに虚空蔵菩薩像の刻まれた石のみが当初の姿をとどめている。弥勒磨崖仏は高さ約16メートル、幅約15メートルの岩に刻まれたが、現状では光背の窪みが確認できる程度で像の姿は全く失われており、往時の像容は『覚禅鈔』(『図像集』)所収の図像や、大和文華館所蔵の『笠置曼荼羅図』(重要文化財)からしのぶほかない。『笠置曼荼羅図』には、弥勒磨崖仏と木造十三重塔が描かれており、最盛期の境内の様子がこの絵から想像される。なお、奈良県宇陀市の大野寺および京都府木津川市加茂町の当尾地区に現存する弥勒磨崖仏は笠置寺の磨崖仏を模したものとされている。 寺は暦応2年(1339年)に再興されるが、文和4年(1355年)再び焼失。永徳元年(1381年)には本堂が再興されるが(文明14年・1482年の勧進帳)、応永5年(1398年)に焼失するなど、再興と焼失を繰り返すが、以後、最盛期の規模が復活することはなかった。 元和5年(1619年)、笠置は伊勢国津藩の所領となった。藩主藤堂高次は慶安年間(1648 - 1652年)に笠置寺本堂を再興した。しかし、近世末には衰退して明治時代初期には無住となってしまった。現在の寺は明治9年(1876年)に再興されたものである。
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