貞慶の来山~元弘の乱とは? わかりやすく解説

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貞慶の来山~元弘の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 06:38 UTC 版)

笠置寺」の記事における「貞慶の来山~元弘の乱」の解説

平安時代後期には末法思想釈迦没後2,000年目を境に仏法滅び、世が乱れるとする思想)の広がりとともに未来仏である弥勒への信仰高まり皇族貴族をはじめ当寺弥勒仏参詣する者が多かった永延元年987年)、円融院行幸(『百錬抄』)、寛弘4年1007年)、藤原道長参詣(『御堂関白記』)などが記録残っている。 鎌倉時代初期建久4年1193年)には、日本仏教における戒律の復興者として知られる興福寺出身の僧・貞慶笠置寺住している。貞慶藤原通憲信西)の孫にあたり鎌倉時代台頭した新仏教(浄土教など)に対する旧仏教側の代表的な僧である。学僧として名が高かったが、南都仏教退廃嘆き笠置隠棲した。以後承元2年1208年)、観音寺海住山寺)に移るまでの十数年間笠置過ごしている。この時期に寺は最盛期迎え伽藍整備された。建久5年1194年)には般若台が建立される。これは『大般若経』を安置する六角形の堂であった建久7年1196年)には重源によって梵鐘現存)や『宋版大般若経』が施入され、建久9年1198年)には木造十三重塔建立された。元久元年1204年)には源頼朝礼堂弥勒磨崖仏礼拝するための建物)の再興費として砂金寄進している。寛喜2年1230年)には東大寺学僧宗性入寺した。 元弘元年1331年8月鎌倉幕府打倒企てていた後醍醐天皇御所脱出して笠置山篭り挙兵した(元弘の乱)。笠置山同年9月落城後醍醐逃亡するが捕えられ、隠岐国流罪になった。この戦乱時の兵火笠置寺炎上し弥勒磨崖仏も火を浴びて石の表面剥離してしまった。笠置山には弥勒磨崖仏の他に薬師石、文殊石、虚空蔵石、両界曼荼羅石などあり、かつてはそれぞれに線刻仏像曼荼羅図刻まれていたが、兵火でほとんどが失われわずかに虚空蔵菩薩像刻まれた石のみが当初の姿をとどめている。弥勒磨崖仏は高さ約16メートル、幅約15メートルの岩に刻まれたが、現状では光背窪み確認できる程度で像の姿は全く失われており、往時像容は『覚禅鈔』(『図像集』)所収図像や、大和文華館所蔵の『笠置曼荼羅図』(重要文化財)からしのぶほかない。『笠置曼荼羅図』には、弥勒磨崖仏木造十三重塔描かれており、最盛期境内様子がこの絵から想像される。なお、奈良県宇陀市大野寺および京都府木津川市加茂町当尾地区現存する弥勒磨崖仏笠置寺磨崖仏模したものとされている。 寺は暦応2年1339年)に再興されるが、文和4年1355年)再び焼失永徳元年1381年)には本堂再興されるが(文明14年1482年勧進帳)、応永5年1398年)に焼失するなど、再興焼失繰り返すが、以後最盛期規模復活することはなかった。 元和5年1619年)、笠置伊勢国津藩所領となった藩主藤堂高次慶安年間(1648 - 1652年)に笠置寺本堂再興した。しかし、近世末には衰退して明治時代初期には無住となってしまった。現在の寺は明治9年1876年)に再興されたものである

※この「貞慶の来山~元弘の乱」の解説は、「笠置寺」の解説の一部です。
「貞慶の来山~元弘の乱」を含む「笠置寺」の記事については、「笠置寺」の概要を参照ください。

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