貞心尼の迷いに良寛からの手紙(文政11年11月=冬 31歳)
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「貞心尼」の記事における「貞心尼の迷いに良寛からの手紙(文政11年11月=冬 31歳)」の解説
〔貞心尼がまとめた「はちすの露」には、良寛との贈答歌が載っている。〕 ほどへてみせうそこ給はりけるなかに 君やわする道やかくる丶このごろはまてどくらせど音づれもなき 師 〔この歌は、良寛と貞心尼と出会った翌年、秋には必ず逢う約束をしていたにもかかわらず、姿を現さぬ貞心尼に良寛が宛てた書簡の中にあるもの。『良寛の書簡集』(谷川俊朗編 恒文社)p. 297 によれば、次のように良寛の歌が、当初に歌われた順のままに、手紙に残っていることがわかる。この歌が詠まれた状況を知るには、谷川氏の解説が不可欠である。長くなるが同著から引用する。〕 かへし ひさかたの月のひかりのきよければ てらしぬきかり からもやまとも むかしもいまも うそもまことも やみもひかりも はれやらぬ みねのうすぐもたちさりて のちのひかりとおもはずやきみ ふゆのはじめのころ きみやわするみちやかくる丶このごろハ まてどくらせどをとづれのなき 良 寛 霜月四日 ○この書簡にも宛名がない。しかし、歌はいずれも『はちすの露』にあるから、貞心尼宛の書簡である。この書簡の初めにある「かへし」とは、次の貞心尼の歌に対してである。 やまのはのつきはさやかにてらせども まだはれやらぬみねのうすぐも 〔貞心尼〕 貞心尼は、仏法に対する悟りがまだ得られないことを、良寛に訴えたのである。それに対して良寛は、月の光のような清く尊い仏のみ心は、唐(から)の国も日本も、昔も今も、うそも真実も、闇の世界も明るい世界も、みな同じように照らして理解するようにしておられる。だから、あなたもやがて仏のみ心を理解できるであろうと、歌で教えたのであった。 この歌は、変わった形式である。従来の歌集にはないようだ。その形式の中に良寛は、空間の世界、時間の世界、内面の世界、外面理念の世界を対にして、月輪のごとき丸く円満な仏法は、宇宙の実相をわけへだてなく、あまなく照らしている、と教えたのである。 さらに良寛は、あなたの心の迷いはやがて消え去り、月の光のような仏法の光が、あらゆる隅々まで、きっと照らし出すだろうよ、そのように、あなたは仏法を悟ることができるはずだ、と歌で示した。これらの歌に接した貞心尼は、仏法を理解でき、その喜びを歌にして良寛へ送った。 我も人もうそもまことも隔てなく 照らしぬきけり月のさやけさ 覚めぬれば闇も光もなかりけり 夢路を照らす有明の月 〔貞心尼〕 良寛も、すぐに祝福の歌を返した。 天が下に満つる玉よりこがねより 春の初めの君がおとづれ 〔良寛〕 なお、書簡の最後の歌について、『はちすの露』の中で貞心尼は、「ほどへてきせうこそ給はりけるなかに」と詞書をつけ、返歌を記している。 御かへし奉るとて 〔貞心尼〕 ことしげきむぐらのいほにとぢられて みをばこ丶ろにまかせざりけり 良寛は、貞心尼が訪問の約束を違えて、なかなか来てくれない不満を、それとなく述べたのである。それに対して貞心尼が、訪問できなかった言いわけを歌で示したのであった。 なお、『はちすの露』の、この部分の頭注に、「こは人の庵に」有りし時なり」と、貞心尼は書き記している。このころ貞心尼は、柏崎の二人の尼僧のもとで、庵室に籠(こも)って修行にいそしんでいたのである。すると、この書状は文政十一年(一八二八)十一月四日のものかもしれない。 — 谷川俊朗編 、『良寛の書簡集』1988, pp. 297~300
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