誕生と隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 06:48 UTC 版)
「国道66号線 (アメリカ合衆国)」の記事における「誕生と隆盛」の解説
アメリカ合衆国で初めて国道システムの設置が提唱されたのは1923年のことである。国道66号線は、1926年に連邦最初の国道の1つとして創設された。国道の設置にあたっては、南北方向に走る道路の国道番号は奇数(北から南にかけて番号が増える)、東西方向に走るものは偶数(東から西にかけて番号が増える)とすることが定められた。東海岸沿いを走る国道が国道1号線、西海岸沿いを走る国道が国道101号線、カナダ国境沿いを走る国道が国道2号線、フロリダとテキサスを結ぶものが国道90号線(英語版)、そしてその間のシカゴとロサンゼルスを結ぶ国道は国道60号線(英語版)とすることが提案に盛り込まれていた。しかし、ケンタッキー州は、バージニアビーチとロサンゼルスを結ぶ道路を60号線とし、ミズーリ州スプリングフィールドとシカゴを結ぶ道路を国道62号線(英語版)とするべきだと提案した。この議論は最終的に、国道60号線はバージニアビーチとスプリングフィールドを、国道62号線はシカゴとロサンゼルスを結ぶ国道として定める事で決着した。だが、アメリカ合衆国南西部を東西に貫くシカゴとロサンゼルスを結ぶこの国道には、62よりも覚えやすく、言いやすく、聞きやすいという理由でゾロ目の番号66があてられた。 国道システムが正式に創設されると、1927年にオクラホマ州タルサで国道66号線協会(英語版)が発足した。この協会の目的は国道66号線の舗装促進、および利用者の増加を図ることであった。翌1928年には、同協会のプロモーションの一環として、バニアン・ダービー(en:Trans-American Footrace)という競走レースを執り行った。これはロサンゼルスからニューヨークまで大陸を横断するもので、シカゴまでは国道66号線を走るルートになっていた。ウィル・ロジャースを含む著名人たちが沿道に応援に駆けつけるなど、プロモーションは成功を収めた。同協会は1976年に解散するまで、沿道の産業界側の窓口としての役割を果たした。 交通量は日増しに増えていった。全体的に平坦な地形など地理的な条件にも恵まれ、トラック輸送には適した道路であった。1930年代には、土壌流出によりカンザス・オクラホマ・テキサス各州からカリフォルニア州へ移住する農家が西へと向かうための道としての役割を担った。この様子をジョン・スタインベックが怒りの葡萄で描いている。大恐慌時代には、この国道の存在は沿道の住民に安心感を与えた。小さな町村を縫うように走り、交通量も増加の一途をたどっていたため、沿道には各種商店やレストランなどビジネスを起こす機会にあふれていた。 創設された当時は、他の多くの国道と同じように、ほとんどは未舗装の埃道であった。しかし、国道66号線協会の努力により、1938年に国道66号線は全米の国道で初めてとなる舗装がなされた。Bloody 66(血まみれの66号線)と呼ばれるような危険な場所もあったが、ルートの変更などにより次第に危険なカーブがルート上から取り除かれていった。しかし、アリゾナ州のブラック・マウンテン山地(英語版)を越える1ヶ所だけは1953年までヘアピンカーブの連続する曲がりくねった道として残った。それでも国道66号線は人気の高い道路であり続けた。 第二次世界大戦中、カリフォルニア州で軍需産業が発達し、西への人口の動きはさらに加速した。そうした状況下で、国道66号線は軍用品の運搬路としての役割を果たした。国道66号線の近くにあったミズーリ州のフォート・レオナード・ウッド陸軍基地は、軍の交通需要に応えるため、迅速に国道の拡幅を行った。 1950年代に入ると、国道66号線の主な通行者はロサンゼルスへのバカンス客へと取って代わられた。この国道はアリゾナ州内においてもグランドキャニオンの近くを通っていた。同州のバリンジャー・クレーターも人気の高い観光地であった。こうした観光需要の高まりにより、沿道にはモーテルや各種ショップが建ち並ぶようになった。また、沿道ではドライブスルーの設置や、マクドナルドの登場など、ファーストフード産業も生まれた。このような沿道の変化は、「ルート66」を単なる道路ではなく、アメリカ近代文化の縮図へと変貌させていった。
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