誕生と装飾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 09:08 UTC 版)
「カタコンブ・ド・パリ」の記事における「誕生と装飾」の解説
集団墓地と地上から取り出された骨は洗浄してフォークで荷車に乗せられた。1788年4月7日の奉献式前夜まで、聖歌隊の行列の後ろに、黒い布で覆われた骨を運ぶ馬車連がカタコンブへ向かった。これは約15ヶ月間続いた。行政は、埋葬の措置をみな同じにした。サン・イノサン墓地、特に教会に隣接する他のパリ内の墓地を例とすれば、墓地は1788年1月までに順番に空になっていった。労働者たちは地下の洞窟全体に分散しており、井戸に骨が投じられると、彼らは大量に放棄された骨を集めた。そして骨のために用意された地下の部屋に手押し車や木製のカートに乗せて運んだ。各部屋には骨の元の埋葬場所と、搬入された日付を記したプラークがはめ込まれており、同じ土地には十字架、骨董品その他の共同墓地の記念物がパリの教会の共同墓地に運ばれて埋められた。 最初の数年間、カタコンブは主に骨の集積所となっていたが、1810年からギヨモの後任となったルイ=エティエンヌ・エリカール・ド・テュリーは地下洞窟をほかの全ての霊廟と同等に、現実的で訪問可能な墓地に変えてしまった。頭蓋骨と大腿骨を配置するよう指示して今日のカタコンブで見られる構成とし、彼は墓石や墓地の装飾を利用して、骨で埋め尽くされた壁を補完することを見出した(これらの多くは1789年のフランス革命後に失われた)。実際の移送作業は1814年まで続いた。フランス第一帝政時代、サン・イノサン墓地のあった場所には野菜や果物の市場が立つこととなり、基礎工事中に出土した骨は同じ過程を経てカタコンブへ送られた。1842年にようやく再開された移送作業は1860年まで行われ、年800台になろうという馬車がヴォージラールの仮納骨堂へ、そしてカタコンブへ骨を運んだ。このようにして、17箇所の墓地、145の修道院や宗教施設、墓地に囲まれた礼拝所160箇所、これらが地下にある採石場へ骨を提供した。最終的には、オスマンのパリ大改造の際にあらたな骨が見つかり、順次カタコンブへ送られた。
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