誕生と阿波への下向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 08:09 UTC 版)
永正6年(1509年)、または同8年(1511年)、足利義澄の次男(または長男)として、近江国蒲生郡の水茎岡山城で誕生した。母は斯波氏の女性、または細川成之の娘とされる。 当時、父の義澄は大内義興に擁された前将軍・足利義稙が上洛した煽りを受け、将軍職を解任されており、近江の六角高頼を頼って落ち延びていた。だが、永正8年に六角高頼が義稙と内通しているとの噂が流れたため、義澄は2人の息子をそれぞれ別の地域に送ることにした。兄弟の義晴が播磨の赤松義村のもとに送られたのに対し、義維は阿波国の細川澄元のもとに送られ、その庇護の下で成長した。 永正18年(大永元年、1521年)3月、管領の細川高国と対立した義稙が京都を出奔し、7月に義晴が高国によって新将軍に擁立された。他方、義稙は阿波に逃れたが、息子のいない彼は義維を養子とした。
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