誕生と苦難の幼少時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:13 UTC 版)
江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現在の東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。このありさまは、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。この悲劇が、のちの勉学に励む姿とあわせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。のちに谷文晁に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活に苦労せずにすむようになることができた。一方で学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、18歳のときには昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学んだ。また、佐藤信淵からは農学を学んでいる。
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