オートマタの誕生と隆盛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 22:30 UTC 版)
「オートマタ」の記事における「オートマタの誕生と隆盛」の解説
イスラム黄金期を代表する発明家アル=ジャザリは、水力で駆動するウェイトレスや楽団など多様なオートマタを考案製造し、機械機構に関する書『巧妙な機械装置に関する知識の書』を著して、後のオートマタ発展の礎を築いた。16世紀には仕掛け噴水やオートマタを配置した人工庭園がヨーロッパで流行する。1615年にはフランスの技術師サロモン・ド・コーが『動力の原因』を発表した。そこで紹介されている自動装置の設計図では、水力とともに歯車が動力として用いられていることがわかる。 大まかな構造図と残骸の写真のみで現物は残っていないものの、近代オートマタの誕生を語るうえにおいて外せない発明は、18世紀フランスの発明家であるジャック・ド・ヴォーカンソンによる「消化するアヒル(Canard digérateur)」である。このアヒルは1753年に発表されたとされ、羽ばたき、声をあげ、えさを食べ、水を飲み、排泄するという仕掛けであったと伝えられている。残骸の写真を見る限りアヒルのサイズの24倍程度の台座があり、その中に巨大なシリンダーを中心にすえたメカニズムが見える。また、ハンガリーのケンペレンは1770年にチェスを指すオートマタ(「トルコ人」)を作り、評判を呼んだ。しかし、「トルコ人」は人間が隠れて操作をしていたため、一時的にオートマタ全般の動きそのものまでもが疑いの目で見られるようになった。エドガー・アラン・ポーもこのチェス人形のからくりに疑いをもち1836年に発表された「メルツェルのチェス人形」という作品で取り上げている。 美術的価値の高い人形作りの技術と内部に秘められた仕掛けとがあいまって、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、その時代の技術の粋を集めたオートマタが次々と生まれた。そこには時計職人の自信の技術を遺憾なく発揮できる対象としてという側面と、当時、時計は高級品であり、持つことができるのは貴族階級であったためにその豪華さも競われるという時代背景があった。中でもスイスの時計職人であったピエール・ジャケ・ドローの作品は代表的である。文字を書く、絵を描く、オルガンを弾く、物語性を持った複雑な動きと芸術性を併せ持った作品はほとんどこの頃のものである。1780年、ジャケ・ドローは「滝のある鳥篭」を製作。鞴(ふいご)の原理で鳥が囀り、水が管の中を流れているように見えるものであった。1839年生まれのギュスターブ・ヴィシー(Gustave Vichy)は作品を1878年のパリ万博に出品するなどの活躍をし、商業用の電動オートマタを製作。これらは主に客寄せとしてショウウインドウなどに飾られた。エルネスト・ドゥカンなどがオートマタ製作者として後世に名を残しているほか、個人ではなく会社組織として製作するJAF社などが存在した。
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