オートマタの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 18:37 UTC 版)
「ジャック・ド・ヴォーカンソン」の記事における「オートマタの開発」の解説
18歳のとき、ヴォーカンソンは貴族からリヨンに自身の工房を与えられ、機械の組み立てを許された。同年(1727年)、レ・ミニームを治める行政官の訪問を受けている。ヴォーカンソンは人間を模した機械の製作を決めた。そのオートマタは晩餐の給仕をし、食卓を掃除するというものだった。しかし、行政側はヴォーカンソンのやっていることを「冒涜的だ」と断じ、彼の工房の破壊を命じた。 1737年、ヴォーカンソンは「笛吹き人形」を作った。等身大の人形であり、笛と太鼓を演奏でき、12曲のレパートリーがあったという。その指は笛を正しく演奏できるほど柔軟ではなかったため、ヴォーカンソンはその手に革の手袋をはめた。翌1738年、彼は製作したオートマタを科学アカデミーで披露した。当時オートマタはヨーロッパ中で流行していたが、その多くは玩具程度であり、ヴォーカンソンの生きているかのような機械は革命的だった。 1738年後半には、「タンバリンを叩く人形」と「消化するアヒル(Canard digérateur)」を製作した。特にアヒルはヴォーカンソンの最高傑作とされている。アヒルは400点の可動部品で構成され、羽ばたくことができ、水を飲み、穀物をついばんで消化し、排泄することができる。ヴォーカンソンのアヒルは確かに消化を正確に実演してみせたが、実は「消化済みの食物」を格納した小部屋が内部にあり、アヒルが食べた穀物を消化して排泄したわけではなかった。そのような「詐欺行為」は時折問題とされるが、後援者となる金持ちや有力者を楽しませるという意味ではそれで十分だった。ヴォーカンソンはアヒルの腸に使うために世界初の柔軟なゴム管を発明したとされている。このような革命的な発明をしたにも関わらず、ヴォーカンソンはそれにすぐ飽き、1743年にはそれらを売ってしまった。 これらの発明により、プロイセンのフリードリヒ2世がヴォーカンソンを知るようになり宮廷に招こうとした。しかし、ヴォーカンソンはあくまでもフランスのために働きたいと考え、その招待を断った。
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