記念切手を巡る醜聞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 22:56 UTC 版)
「アルフレッド・ウォーデン」の記事における「記念切手を巡る醜聞」の解説
詳細は「アポロ15号#醜聞」を参照 乗組員はミッション前に、西ドイツの切手商であるヘルマン・ジーガーの代理で知り合いのウォルター・アイアーマンという人物と、各人約7000ドルの報酬と引き換えに100枚の初日カバーを月面に持ち込むとの約束を交わしていた。乗組員は各々追加で100枚ずつを持ち込んだが、2枚は破損していたため破棄され、合計398枚となった。これらは、打上げ前にスコットの宇宙服のポケットに入れてエンデバーに持ちこまれ、ファルコンに移されてランダーの中で3日間を月面で過ごした。帰還後、100枚のカバーは西ドイツのアイアーマンに返却され、乗組員は合意した額の支払いを受けた。NASAのルールでは、アポロに持ち込まれる個人的な物品は、重量その他の理由で明示したうえでスレイトンの承認を受ける必要があったが、これらはそうしていなかった。乗組員は、子供のための信託資金を準備するためである、アポロ計画が終了し彼らがNASA及び空軍を去るまでカバーは販売しないし宣伝もしない、等と弁明した。宇宙飛行士は、1967年発効の行動基準により、自身または他者の経済的利益のために自身の立場を利用することを禁じられていた。 スコットにより持ち込まれた398枚に加え、ウォーデンは、引退した映画監督で切手収集家のF・ヘリック・ヘリックの要望で144枚のカバーを宇宙に持ち込んでいた。これらは予めスレイトンの承認を経ていたもので、ウォーデンがこれらをどうしたのかは尋ねられなかった。ウォーデンはこの100枚をへリックに送り、へリックはこのうち何枚かを売り払った。これがきっかけでNASAに問合せがあり、スレイトンはウォーデンにこれ以上の販売を止めるように警告した。ウォーデンはへリックに、切手の販売は彼のキャリアをリスクに晒すことになると怒りの手紙を書いた。 スコットが西ドイツに送った100枚のカバーは、1971年末にジーガーの顧客に1枚約1500ドルで販売された。乗組員は受け取った金を返却し、結局何の補償も受け取らなかった。スレイトンはジーガーのカバーの話を耳にし、ウォーデンとアーウィンに話すと、二人はスコットのせいだとした。スレイトンはウォーデンが切手収集家だと知っており、彼が2つの取引を差配したのではないかと疑い、詳細を聞くために何度も電話をかけた。1972年4月、スレイトンはスコット、ウォーデンと会い、未承認の切手カバーがアポロに持ち込まれたことを知った。ウォーデンは、この面会で最も彼を傷付けたのは、尊敬していたスレイトンの落胆だったと回想した。 アポロ15号の乗組員は、アポロ計画最後のミッションとなるアポロ17号でバックアップクルーを務めることになっていた。これは、その後の計画で月に行く見込みのない新人を育成するよりは、経験のある宇宙飛行士を使った方が簡単だったためである。しかし、ウォーデンの記憶では1972年5月、地理訓練の準備をしていた最中にスレイトンは彼を呼び出し、オフィスを片付けて空軍に戻るように指示した。クレイトンはアーウィンを説得して引退させ、NASAに新しいバックアップクルーを任命させていた。ウォーデンはオフィスの片づけをせず、宇宙飛行士ではなくともNASAに残る方法を模索し始めた。スレイトンは、宇宙飛行士の数を減らす必要があり、アーウィンとミッチェルは軍を引退する資格もあるため真っ先に候補に挙がったが、切手カバーの一件もあって、その次に最も容易に勧告できる宇宙飛行士がウォーデンだったと語った。 1972年6月にはこの件が公表され、3人の乗組員は、7月10日に判断力の欠如に対し懲戒処分を受けた。8月3日には、アメリカ合衆国上院の航空宇宙科学委員会による聴聞が行われ、宇宙飛行士の他、スレイトン、NASA長官のジェームズ・フレッチャー、副長官のジョージ・ロウが証言した。スレイトンは供述書に、「彼らはさっぱりしてしこりも取れているが、私はまだこれについてかなり腹を立てている」と書いた。 ウォーデンはまだNASAでの仕事を探しており、委員会の前に、自身が働くことに合意してくれる人がいた場合、NASAに留まることができると言われたと証言した。有人宇宙飛行部門の副責任者であったデイル・D・マイアーズは、彼をカリフォルニア州のエイムズ宇宙センターで職を得ることができるよう手助けした。ロウによると、NASAは、懲戒処分を受けた宇宙飛行士が空軍でそれ以上昇進できず、また空軍には宇宙飛行士の能力に見合う仕事がないことから、宇宙飛行士は宇宙飛行の任務を外れても、NASAの他の部署での仕事を求めると気づいていた。エイムズ宇宙センターでは、ウォーデンはSenior Aerospace Scientistとして働き、1973年から1975年には、Systems Study Divisionのチーフを務めた。1975年に大佐の階級でNASA及び空軍を引退した。 彼は最初の自伝で、自身は「自分の人生を完全に不可逆的に滅茶苦茶にする決定」の責任を取っているものの、スコットは責任を十分に負っていないと感じていると書いている。また、死後の2021年に出版された2冊目の自伝では、スレイトンは彼を解雇したくはなかったが、その上司のクリストファー・クラフト・ジュニアが彼を解雇したがったと信じていると書いた。アポロ10号船長のトーマス・スタッフォードは、ウォーデンの発の著書の後書きに、「アポロに乗せられた何枚かのカバーの短期間の宣伝のために、アルは自身の努力をやめるべきではなかった」と書いた。ウォーデンは後に、「私達はもしかしたら世界で最も賢いことをしなかったかもしれないが、違法なこともしなかった。私達は、他の誰もがしなかったことは何もしなかったが、その結果は私達にとってかなり深刻であった」と語った。
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