計画・施工
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 05:43 UTC 版)
戦後日本の道路整備促進の流れは、実業家でのちに参議院議員となった田中清一らによって主導された国土開発縦貫自動車道構想であったが、これに平行する動きとして、建設省もまた戦前の自動車国道構想を下敷きに、東京 - 神戸間高速道路計画の着手に乗り出していた。 1953年(昭和28年)ごろ、田中主導の国土開発縦貫自動車道構想を基とする中央道ルートの東京 - 名古屋間高速道路計画が具体化しはじめたことから、建設省は東海道ルートを前提とした「東京神戸間有料道路計画書」を公表して対抗した。これ以後、建設ルートを巡って「東海道か中央道か」という論争が、次第に激しくなったため、日本国政府は当面実施すべき区間を名古屋 - 神戸間に限定し、その計画を有料道路とするとともに、借款を世界銀行に求めることにした。 1956年(昭和31年)、世界銀行が名神高速道路の実現可能性調査のために、ラルフ・J・ワトキンスを団長とする調査団を派遣して提出された調査報告書である『ワトキンス・レポート』には、名神高速道路の建設を是とした上で、建設費の一部に世界銀行が貸付を行うことを肯定し、日本国政府に対しては、道路行政の改革を勧告したほか、道路予算を3倍増とすることを提言する内容が書かれていた。世界銀行からの借入金は、当時としては借入期間が長期で安定していて低金利であった。 国費ではなく、借入金によって建設して返済するシステムは、道路公団方式による有料道路建設の端緒となった。 名神高速道路の設計計画は、当初はアメリカのターンパイク(有料道路)やインターステイツ・ハイウェイ(州際道路)の基準を手本に、日本独自で進められたが、アウトバーンの設計技師も務めたクサヘル・ドルシュを名神高速道路の設計技師として迎え、日本道路公団内ではドルシュの教えに従って、設計手法が大きく変わっていった。 世界銀行が派遣し、設計コンサルタントとして来日したドルシュの提言は、高速道路の線形設計では、周囲の地形に調和するようにクロソイド曲線を採用したり、それまで設計済みであったインターチェンジ計画を大規模な様式にするなど、それまで高速道路設計の経験が無かった日本の手法を大きく変えさせた。 建設省は、1957年(昭和32年)10月に国土開発縦貫自動車道建設法の規定に基づき、小牧 - 西宮間について、日本道路公団に対して施工命令を出し、名神高速道路の建設は始められた。この着工によって、日本の高速道路はスタートを切ることになった。 当時、舗装はコンクリート舗装が一般的であったが、コンクリート舗装とアスファルト舗装とで、経済性・耐久性・快適性などを比較検討を行い、名神高速道路ではアスファルト舗装が導入されることになった。 土工では本格的に機械化施工を導入し、施工規定に加えて初めて性能規定も定めた。また、盛土の横断勾配は試行錯誤を経て、機械による転圧が可能な1:1.8とし、現在でも標準の横断勾配となっている。 トンネルの施工では、従来は木製の支保工が用いられていたが、地質が悪く大きな地圧が作用する梶原トンネル・天王山トンネルでは、日本で初めてH形鋼の支保が導入された。アーチ支保の導入により、大型機械が導入可能となり、安全性と効率性が大幅に向上した。 そのほか様々な技術が、名神高速道路の建設によって生まれ、進化を遂げながら現在に繋がる。
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