解放同盟批判派の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 07:21 UTC 版)
「八鹿高校事件」の記事における「解放同盟批判派の見解」の解説
上記のように部落解放同盟の公式見解としては本事件の責任を日本共産党の「差別教育」に帰しているものの、最高裁民事判決は、事件当時の八鹿高校の同和教育授業について「少なくとも部落差別を助長するような差別教育ではなかったことは明らか」と判示している。 事件当時における八鹿高教師のリーダー格で「部落研」の顧問を務めた片山正敏(高教組但馬支部長=当時)は、2012年、上原善広の取材に応じて 「糾弾がはじまると、まず何度も水をかけられました。当時の11月下旬というのは、今と違ってさらに寒かった。それから多い時は7、8人に囲まれて、殴る蹴るの暴行です。とくに私は解同から狙われてましたからね。しぶとく我慢していると、違う部屋に連れて行かれ、そこでも殴る蹴るの繰り返し、挙げくにタバコの火まで顔に押しつけられた。まるで戦前の特高なみですよ。それから午前10時すぎ頃に自己批判書を書かされました。(中略)終わったのは午後11時くらいでしたから、12時間ほどの糾弾会でした。私は診断書によると肋骨骨折、腰椎横突起骨折、顔面打撲などで全治2ヶ月の重傷を負い、入院しました」 「私は、私は小林多喜二になりそこねた男ですッ。自己批判書なんて屈辱的なもの書かされて、これは一生、心の傷となっています」 と述べている。また、共産党員以外の教師も 「解放同盟のメンバーが半長靴で蹴りながら教師たちのスクラムを崩して、第二体育館へ連れて行ったのは事実です。体育館では最初に泥水を掛けられます。私は9杯かけられたところまでは覚えています。その後も殴ったり蹴ったりされて、気を失ってしまいました。(中略)私は救急車で病院に運ばれ、そのまま2週間入院しました」(特に支持政党のない70代の元教師) 「女性教員なんか髪の毛ひっぱられたから、そこだけごっそり髪の毛が抜けていた。顔を腫らしている人も沢山いた。だから暴力があったのは確かです」「タバコの火をあてることも十分ありうる話です。実際に見たわけではありませんが、傷跡は見ていますし、暴行されているところは目の前で見ていますからね」「自己批判書は、会議室で書くんです。私は夕方には会議室に連れて行かれて書かされた。それも1回じゃ駄目なんです。解同が満足するまで何度も書き直しさせられました」(当時の解放同盟と同じく社会党を支持していた72歳の元教師) などと証言し、無党派層や社会党支持者も解放同盟から暴力の被害を受け、あるいは「自己批判書」を書くことを強要されたと伝えている。また、部落解放同盟と対立関係にある人権連は 「1970年代半ば、「解同」は「同和」を看板にして、やりたい放題のことをやりました。 当時、あたしはまだ子どもでしたが、「同和の人らはこわい」って言う声を、よく聞いたものです。 その頂点が、1974年の「八鹿高校事件」でしたな。 自分らの言うことを聞かない教師を、集団でリンチにかけてしまったんですから、ひどいもんです。 これ、最初は警察も動かなかったんですよ。 警察官だって人の子ですから、やっぱり命は惜しいんでしょうな。 でも、それに味を占めた「解同」が好き勝手やりまして、「同和はこわい」ってことになっちゃった。 「解同」は、刑事・民事ともに、最高裁判決で有罪となったのに、この問題については21世紀のこんにち現在、反省していないんですからな。 まったくもって図々しいヤツらで。 もう図々し学校を優等で卒業したようなヤツらです」 「刑事と民事の裁判で事実が確定した今も、インターネットなどで事実と本質をゆがめたり、曖昧にしたりする記載をしている人たちがいますが、いずれも、現地の住民や当事者から直接話を聞かず、出版物の記載と先入観(偏見)であれこれ論じているのが特徴です」 と述べ、「同和はこわい」とのイメージが社会的に定着したのは、本事件における部落解放同盟の暴力行為によるものと評している。寺園敦史もまた、前記の「八鹿闘争勝利記念碑」の碑文を「歪曲、あるいは主観的な意見という範囲を超えた、嘘の記載」と批判し、 「いくら「部落解放」だの「差別糾弾」だのといった名目をつけたとしても、集団で人を死にかけるまで暴行すれば、警察が動くのは当然のことです。これを一般に弾圧とは呼ばない」 「「1988年5月大阪高裁は教師の不当性、憲法の14条に根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。」という点は、事実に反しています。「同判決は、確認・糾弾行為について「糾弾は、もとより実定法上認められた権利ではない(中略)、一種の自救行為として是認できる余地がある」と述べているのであって、一般的・包括的に糾弾行為を自救行為として是認したものではなく、まして「糾弾する権利」を認めたものではない」(「確認・糾弾」についての法務省見解)ということだったはずです」 「いったい誰が、何に対してどのような勝利を獲得したというのか。(略)部落問題の解決という大きな流れで振り返るなら、事件に勝者などありえない。全員が敗者だったことになると思えるのです」 と論じている。
※この「解放同盟批判派の見解」の解説は、「八鹿高校事件」の解説の一部です。
「解放同盟批判派の見解」を含む「八鹿高校事件」の記事については、「八鹿高校事件」の概要を参照ください。
- 解放同盟批判派の見解のページへのリンク