若月彰との出会い
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時事新報の学芸担当の記者、若月彰は発売直後、「乳房喪失」を購入した。退勤後、自宅で乳房喪失を読み始めた若月は夢中になってしまい、結局徹夜をする。若月は当時23歳の若さであったが文学に対する造詣が深く、若いながらも上手い文章を書く記者であった。そして短歌研究編集長の中井英夫とも親しく、しばしば「短歌研究」に寄稿していた。また周囲の証言によれば若月は背が高く、美男子であった。 「乳房喪失」に感動した若月は翌朝、さっそく「短歌研究」編集部に中井を尋ねた。若月は学芸担当の記者として中井からふみ子に関する様々な情報を入手し、記事にしようと考えたのである。若月と親しかった中井は若月にふみ子からの手紙などを見せ、更にこれまでの経緯を説明した。若月は歌集が出版されるまでの経緯を把握するとともに、作者のふみ子が重い癌で入院していることを知った。 記事のソースを集めた若月は出社後、さっそく上司の酒井寅吉部長に経過を報告しふみ子の記事を書き始めた。しかし記事を書きながら「そもそも中城ふみ子その人に会わずして記事を書いてしまってよいのだろうか?」という疑問が頭をもたげてきた。若月は酒井部長に対し、ふみ子に会って記事を書きたいと直訴した。酒井は逡巡したものの若月の熱意を認め、休暇を取得して札幌へ取材に行くようアドバイスした。休暇を取っての取材となるため経費は全て自腹になる、若月のことを買っていた丹羽文雄からお金を借りて、札幌へ向けて出発した。 札幌に到着した若月はまず北海道新聞社に山名康郎を尋ねた。若月が訪ねた際、山名はちょうど中城ふみ子の記事執筆に没頭していた。前述のように山名はふみ子の歌友であったが、これまで本職の新聞記者として記事にしたことはなかった。しかし7月1日に「乳房喪失」が出版され、職場での雑談のネタにしていたのを上司が聞きつけた。山名は上司からこれほどのネタは記事にすべきであると指摘され、あわててカメラマンとともにふみ子のもとに取材目的で訪れ、記事にまとめる作業の最終段階にちょうど、若月が現れたのである。 記事執筆を終え、山名は若月とともにふみ子の病室に向かった。ふみ子は中井英夫からの速達で若月の訪問を事前に知っていた。若月の来訪を知ったふみ子は口紅を塗り、軽くお化粧をして病室に二人を迎え入れた。初対面時、ふみ子と若月は軽い挨拶を交わした程度であったという。翌日の朝刊、北海道新聞の社会面に山名が書いたふみ子の記事が掲載された。記事は大きな反響を呼び、今度は歌壇を超えて一般の人たちからもふみ子の病室宛に続々とお見舞いの手紙が届くようになった。若月もまた、東京で執筆していた記事にふみ子のインタビューを加筆する形で記事を完成させた。若月の記事も時事新報に掲載され、やはり大きな反響を呼んだ。 北海道新聞の社会面にふみ子の記事が掲載された朝、山名はふみ子の病室を若月と共に訪れた。新聞社での仕事がある山名は若月と一緒に病室を辞去しようとしたが、若月はそのまま居残るという。これが意外な方向に事態が進むきっかけとなった。 ふみ子は当初、若月に対してそっけない態度をとっていたが、次第に心を開くようになっていった。ふみ子と若月が出会った7月初め時点で、若月に対してもう歌は作っていないと語っていた。若月はふみ子に歌を詠み続けるよう働きかけを行っていた。少しづつお互いの距離が縮まってきた頃、仕事がある若月は明日帰京するとふみ子に挨拶に行った。ふみ子は泣きながら自分にはもう帰るところはなく、ここで終わってしまうのだと言い、もう少しいて欲しいと懇願した。若月は上司の酒井部長に事情を説明した長い手紙を書き、札幌に留まった。手紙を受け取った酒井は、若月に対して急ぎ帰って来るには及ばない旨の電報を送った。 若月はふみ子に酒井部長からの電報を見せた。ふみ子は喜び、歌を作っていかねばならないわねと答えた。その後まもなく、ふみ子は看病のために付き添っていた母親と喧嘩となり、付き添いを断り家に帰るよう訴えた。母は娘が若月に心惹かれていることを見ていた。若月にふみ子のことをお願いすると、いったん帯広に帰っていった。この頃には若月の旅費も底を尽きつつあったため、結局母が帯広に帰った日の夜以降、ふみ子のベットの下にゴザを敷いて寝るようになった。歌友たちもまたふみ子の若月に対する思いを察し、極力見舞いを控えるようになっていった。 若月は母の代わりにふみ子の看護を行った。ふみ子は作歌を再開していたが、若月にも詠んだ歌をなかなか見せようとはしなかった。7月20日、ふみ子は結果として最後となる手紙を中井英夫に送っている。最後の手紙の中でふみ子は、歌のことを含め、他の事はもう自分にとって必要ないが、とにかく中井に会いたいと記している。その晩、若月はふみ子の額にキスをする。その情景を詠んだ歌が、 この夜額に紋章のごとかがやきて瞬時に消えし口づけのあと である。 若月はふみ子が自分に性的な関心を持ち始めていることを感じ出していた。それでもなかなか詠んでいる歌を見せようとはしない。7月22日夜、ふみ子はベット下の若月の眠るゴザに潜り込み、抱くように懇願した。重病人のふみ子を抱けばそのまま死んでしまいかねない。躊躇する若月にもう死んでも良いとふみ子は答えた。隣のベットで眠る老婆を気にかけながら、若月はふみ子のことを抱いた。結局、ふみ子の詠んでいた歌は翌23日の深夜、ふみ子が寝ている隙に若月が自らのノートに書き写した。 7月25日、さすがの酒井部長も帰郷命令の電報を若月に送った。同日夕方、若月は帰京の途につき、翌26日には再び母が帯広からやって来てふみ子の看病に当たるようになった。26日の晩、ふみ子は歌友に10首の新作を渡した。またふみ子は母に対して、若月がふみ子に黙って書き写した歌が書かれた手帳の焼却を依頼した。母はふみ子の依頼に従って手帳を焼却した。そのため最後の頃に詠んだ歌の多くが原資料が無い状態となっている。 息切れて苦しむこの夜もふるさとに亜麻の花むらさきに充ちてゐるべし などに代表される、ふみ子の遺詠ともいうべき歌の多くは、若月が記述したことによって残ることになった。
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