航路と遣唐使船とは? わかりやすく解説

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航路と遣唐使船

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 08:10 UTC 版)

遣唐使」の記事における「航路と遣唐使船」の解説

遣唐使船は、大阪住吉住吉大社海上安全の祈願行い海の神の「住吉大神」を船の舳先祀り住吉津大阪市住吉区)から出発し住吉細江(現・細江川 通称細井川)から大阪湾に出、難波津大阪市中央区)に立ち寄り瀬戸内海経て、那大津福岡県福岡市博多区)に至り大海を渡る最後準備をし出帆その後は、以下のルート取った推定されている。 北路北九州対馬経由する場合もある)より朝鮮半島西海岸沿いを経て遼東半島南海岸から山東半島登州へ至るルート630年から665年までの航路だったが、朝鮮半島情勢変化により使用しなくなった。 南路五島列島から東シナ海横断するルート日本近海対馬海流横断して西進する702年から838年までの航路南島薩摩坊津鹿児島県南さつま市)より出帆し南西諸島経由して東シナ海横断するルート杉山宏の検討により、存在証明できないこと判明している。気象条件により南路から外れた場合やむを得ずとった航路考えられ、南路を取って漂流した結果過ぎず採用事実はないとする説もある。 663年白村江の戦い日本朝鮮半島での足場無くなり676年唐・新羅戦争新羅半島から唐軍追い出して統一成したため唐と新羅の関係が悪化し日本は北路での遣唐使派遣出来なくなり新たな航路開拓必要になった。なお、665年遣唐使は、白村江の戦いの後に唐から日本に来た使節が、唐に帰る際の送唐客使である。 839年帰路は、山東半島南海岸から黄海横断して朝鮮半島南海岸を経て北九州に至るルートがとられたようである。 遣唐使船はジャンク船似た構造網代帆を用い後代には麻製の補助の布帆を使用していた史料もあり、漕ぎ併用していた。網代帆は開閉が簡単で横風や前風などの変風に即時対応しやすく優れた帆走性を持っている船体は、耐波性はあるものの、気象条件などにより無事往来出来可能性は8割程度と低いものであった。4隻編成航行され、1隻に100人、後期には150程度乗船した後期遣唐使船の多く風雨見舞われ中には遭難する船もある命懸け航海であった。この原因佐伯有清採用され新羅船形式は中型船までは優秀だが、遣唐使船は大型化のための接合で、風や波の打撃大きく舳と艫が外れやすくなったとし、第1期舒明から天智朝)に120人、第2期文武から淳仁朝)に140から150人が、第3期光仁から宇多朝)から160から170人と大人数化し乗員積載物資激増して遭難多発し始めた指摘する東野治之遣唐使外交的条件挙げ遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもってたとする。しかし、遣唐使朝貢使という性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本出航元日朝賀出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件良くない季節帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没遭難頻発した推定している。海事史学者石井謙治は、前期沿岸航法である北路とは異なり後期の南路は当時未熟な航海技術五島列島から直接東シナ海突っ切るため、遭難頻繁した原因とする。

※この「航路と遣唐使船」の解説は、「遣唐使」の解説の一部です。
「航路と遣唐使船」を含む「遣唐使」の記事については、「遣唐使」の概要を参照ください。

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