航路の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/31 04:27 UTC 版)
明治以降、多くの汽船が東シナ海に就航したが、トカラ列島の各島に寄港することはほとんどなかった。1907年(明治40年)、トカラ列島への航路が命令航路(国庫補助航路)となり大洋商船が受命者となったことから、主に同社の奄美・沖縄航路に就航する船舶が時々寄港するようになった(なお、受命者は同社であったが、実質的な権利は奄美・沖縄航路を寡占していた大阪商船が掌握していたとされる)。 貨客船の寄港は実現したものの、港湾設備の問題などから寄港が月に1-2回程度となっていたことや、国庫補助航路であるにも関わらず老朽船を配船されるなど、住民から不満の声が挙がった。また、当時の船便は旅客や貨物だけでなく情報を運ぶものとの認識であったことから安定的な運航が課題とされ、民間船の寄港ではなく十島村(じっとうそん)による村営船を持つべきとの議論が村議会などで高まった。 1932年(昭和7年)、県当局に対する誘致行動の一環として臨時の村議会を鹿児島市内(県会議事堂)で開催し、村営航路開設の請願を採択した。翌1933年(昭和8年)4月、初の村営船となる「十島丸」が就航し、全ての島に寄港する「十カ島線」および、主要な島に寄港する「四カ島線」の2パターンによる運航が交互になされ、それぞれ月に4往復程度の頻度で航海を行った。奄美・沖縄方面への航海を主たる目的としていた民間船に対し、トカラ列島内への就航を目的とした村営船との利便性の格差は歴然となっていった。また、1942年(昭和17年)には鹿児島と奄美間の需要に応え村の財政に寄与すべく、2番船「金十丸」も就航した。 第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月、船舶戦時海運管理令により両船とも国家管理となり軍事輸送などにも駆り出されたが、戦後は同管理令が解除となり同年10月、村営航路に復帰した。しかし1946年(昭和21年)、GHQ指令により口之島以南が日本の施政権から切り離されることとなったため十島村(じっとうそん)は事実上分裂を余儀なくされたほか、本土と奄美・沖縄を結ぶ航路が全面禁止となり、両船もアメリカの軍政による管理・運航となった。「十島丸」はほどなく日本側に返還され鹿児島とトカラ列島北部などを結ぶ航路に、「金十丸」は名瀬港を拠点にトカラ列島南部を結ぶ航路に就航した。1952年(昭和27年)、トカラ列島は日本に復帰したが「金十丸」は日本側に返還されなかったため、船員が自主的に「シージャック」するという事件が発生している。返還(奪還)後は1952年(昭和27年)に就航した「三幸丸」を含めて三島村と新たに発足した十島村(としまむら)が共同して運航を行ったが、のちに両村による独自運航がなされることとなり、十島村には「十島丸」が承継された。 各島の港湾施設は引き続き増強工事が行われ1990年(平成2年)4月10日、定期船では日本で最後まで常時「艀取り」が行われていた小宝島に直接接岸することが可能となった。 就航した船舶の概要 1933年(昭和8年) - 「十島丸」が就航。(155.88総トン、速力12ノット、旅客定員40名) 1941年(昭和16年) - 「金十丸」が就航、2隻体制となる。(580総トン) 1953年(昭和28年) - 「八島丸」が就航。(木船、70.07総トン、速力8ノット、旅客定員12名) 1958年(昭和33年) - 「第2十島丸」が就航。(253.37総トン、速力12ノット、旅客定員60名) 1971年(昭和46年) - 「第3十島丸」が就航。(496.79総トン、速力15ノット、旅客定員160名) 1985年(昭和60年) - 「としま」が就航。(1,090.00総トン、速力17ノット、旅客定員248名) 2000年(平成12年) - 「フェリーとしま」が就航。(1,392.00総トン、速力19ノット、旅客定員200名) 2018年(平成30年) - 「フェリーとしま2」が就航。(1,953総トン、速力19ノット、旅客定員297名)
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