自動車製造販売
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「自動車製造販売」の解説
馬車経営が安定し一息ついたデュラントだった。すでに40歳となった。1901年から1904年までニューヨーク市に出て株を学んだ。仕事上の旅でも所在も知らせずに長期に家を空けるようになっていた。クララとの不和もその要因の一つだった。このとき、モルガン商会がUSスチールという巨大トラスト企業をつくりだすところを目の当たりにした。デュラントが自動車事業を依頼されたのはこの後だった。 1893年、J・フランク・デュリア、チャールズ・デュリア兄弟が、米国でガソリン自動車を成功裡に走らせていた。1896年にはヘンリー・フォードがデトロイトでヘンリー最初の自動車を走らせていた。しかし19世紀末の米国では自動車はまだ産業とはなっていなかった。しかし、その数年後の1900年頃ともなると馬車産業はしだいに飽和状態となりつつあり、それまでキャリッジやワゴンを製作していた数社が自動車事業に参入しはじめた。デュラント=ドートとならび世界最大の馬車製造業者であった インディアナ州のスチュードベーカーも片手間ながら自動車事業に参入した。十数年の歴史しかなかった自転車産業も同様に米国特許により米国自転車製造を支配したポープ・マニュファクチャリング・カンパニー(コネチカット州ハートフォード)は1900年時点には自転車以外の事業として自動車産業に参入し、タクシー用途の電気自動車製作販売を手がけた。ポープ社は特許力により米国自転車産業で成功したため、自動車産業においても特許による支配をおこなおうとしてセルデン特許を手に入れた会社である。 数百もの技術者、小規模業者が、自動車を実験的に製作していた。開花しようとしていた自動車産業に参入するため、さまざまな会社が地場の資本家から投資を求めていた。ミシガン南部もそういった地域のひとつだった。ミシガン南部はフリントを擁(よう)し、キャリッジやワゴンなど馬車の生産の中心地であったうえ、自動車のもうひとつの重要な要素であるエンジンの技術力が蓄積されていた地域だった。エンジンは定置型の動力として米国中西部の農場で広く普及し、また、船の動力としてモーターボートで使われていた。 この頃、スコットランド生まれのミシガン人デビッド・ダンパー・ビュイック(デビッド・ビュイック)がデトロイトで自動車製作を始めた。ビュイックは、水周り関連のバスタブやシンクでの鋳鉄ホーロー引きの技術で富を得、それを元手に1900年にガソリンエンジンを開発していた。ウォルター・マーやユージン・C・リチャードらを雇いビュイックは先進的な自動車を開発したが、技術志向の経営のため資金はすぐに尽き、出資者を変え何度も会社設立を繰り返していた。ブリスコー兄弟からの出資を受け1903年5月19日にビュイック・モーター・カンパニー(Buick Motor Company)となったが経営難は変わらず、ブリスコーは設立の年にフリントの3大馬車製造会社の1社であるフリント・ワゴン・ワークス(FWW)の経営者、ジェームズ・H・ホワイティングにビュイック社を売却してしまった。ホワイティングは馬車を追いかけようとしていた自動車に興味があった。後を受けたホワイティングはデトロイトからフリントへ会社を移し、1904年1月30日には「ビュイック・モーター・カンパニー・フリント」として新たに法人化。デビッド・ビュイックの車両はやっとビュイック初の量産車ビュイックB型として販売された。しかし、ホワイティングもビュイック自動車事業を軌道に乗せることはできなかった。製造されたビュイック車は1903年に16台、1904年に37台だった。デビッド・ビュイック、ウォルター・マー(ビュイック初の2気筒エンジンを製作した)経営陣と、ビュイックに投資していたウィリアム・パターソン(先のフリント・ロード・カートの車両生産元)ら後援者たちは資金不足を心配し、このままでは成功への望みは薄いと考えるようになった。 ホワイティングは出資していたフリントの銀行協会のメンバーとビュイック社を黒字にできる経営者としてデュラントに依頼することで意見が一致した。ホワイティングとデュラント=ドートとは馬車事業では競争相手だったが互いの関係は友好的だった。地域の会合、食事会、催し物などでも友人として頻繁に会っていた。デュラントはビュイックを買う資金力も、販売の実力も持っていた。 ホワイティングからビュイック自動車製造を引き継いでくれるよう提案されたデュラントはこれに消極的だった。デュラントは自動車は危険なものと考えていた。娘のマージェリーが友人の家の車に乗ることを禁じていた。これは当時の自動車に対する世間一般の意識で、自動車に乗ることは勇気と覚悟を伴う行為とされていた時代だった。信頼性の面でも馬車に比べ劣っていた。頻繁に故障するため使いたいときに使えないことも多かった。しかも自動車(特にガソリン自動車)とは、「うるさく、臭いがひどく、動物が怖がる」という乗り物だった。事業家としてのデュラントは先進的なものに常に関心をもち、1902年には蒸気自動車やガソリン自動車にも試乗していたが、その時点では事業とするだけの魅力を感じなかった。自動車は金持ちの道楽と考えられていた時代だった。
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