群行次第とは? わかりやすく解説

群行次第

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 03:44 UTC 版)

群行」の記事における「群行次第」の解説

群行は、斎王卜定された内親王または女王初斎院入ってから数えて3年目の秋9月に、伊勢神宮神嘗祭対す奉幣使差遣併せて行われる例で、その次第を『延喜斎宮式』によって見ると、当年4月上旬装束司任命され神祇官西院において装束調進始まり7月以前斎宮寮官人(允、史生1人)を伊勢斎宮差遣し斎宮修理などの諸準備に当たらせ、7月または8月大祓使を左・右京、五畿七道差遣左右1人五畿内1人七道1人の計9人)してそれぞれの担当地区清めさせ、8月晦日には宮中朱雀門において大祓を斎行、群行当月9月いっぱい斎月称して左右京、五畿内近江伊勢両国において北辰灯明捧げる北辰祭葬儀禁じるなど、朝野挙げて厳重な斎戒課された。いよいよ下向となると宮中における群行の儀の後、輦(通常天皇・皇后だけしか乗れない特別な輿)に乗り百官見送られ伊勢進発一行斎宮始め長奉送使以下の官人官女およそ500人に及ぶ大行列であった途中近江国国府甲賀垂水伊勢国鈴鹿と壱志に設けられ頓宮で各1泊し6日目斎宮へ入る例であったが、特に垂水頓宮鈴鹿頓宮の間の鈴鹿峠厳しい山越えで、道中最大難所であった。なお、各頓宮正確な場所も現在では殆ど不明であるが、垂水頓宮伝承地一つである、滋賀県甲賀市土山町頓宮にある垂水斎王頓宮跡は国の史跡指定されている。また、群行中には6ヶ所の河川御禊を行う例で(6ヶ所の河川とは、山城国白川近江の瀬多川(現瀬田川)と甲賀川(現野洲川)、伊勢鈴鹿川下樋小川(したひのおがわ)(現松阪市内のとされる)、多気川(現祓川)である)、路次では楽を奏したりもされた。なお群行経路は、平安時代初めまでは伊賀国経て伊勢向かっていたが、光孝天皇仁和2年886年)、繁子内親王群行に際して近江経て鈴鹿峠越えるものに変更された。 群行実際行程を語る史料少なく長暦2年1038年)の斎宮良子内親王群行の際に同行した藤原資房が、その日記『春記』に伊勢までの道程詳しく記録しているのがほぼ唯一ののである。 なお、斎王帰京の際の経路については、『江家次第によれば天皇譲位場合には元の近江路(すなわち、群行経路)を戻るが、天皇斎王身内死去による帰京場合には壱志からは荷物のみは近江路通り斎王伊賀路を進んで青山峠で古い衣装棄て伊賀に入ると輿も替えた後、都祁山越えて奈良(元の平城京)に入り木津川下って難波津出て河内国茨田頓所にて禊を行った後に帰京した伝えている。斎王近江路戻った場合にも茨田のある河内国賦課対象になっており、帰京する斎王は必ず茨田で禊を終えない入京できなかった可能性がある。また、斎宮御所から伊賀路を進んで奈良に出る経路群行成立する以前、すなわち都が平城京にあった奈良時代斎王経路そのまま踏襲しているとする説もある。

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