経歴・競技歴等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 14:30 UTC 版)
「山本博 (アーチェリー選手)」の記事における「経歴・競技歴等」の解説
横浜市立坂本小学校出身。 横浜市立保土ヶ谷中学校アーチェリー部でアーチェリーを始める。 横浜高等学校在学中にインターハイ3連覇を達成。愛甲猛と同級生である。 1984年:日本体育大学3年生の時ロサンゼルスオリンピック出場。男子個人で銅メダルを獲得。 全日本学生選手権個人4連覇を達成。ただし、一浪しているため、インターハイと合わせて7連覇ではない。浪人時代の第二十回優勝者は1歳年上の太田信之である。 1986年:日本体育大学体育学部卒業。教員免許を取得。日本体育大学体育学部助手に就任。 1988年:ソウルオリンピックに出場し8位入賞。 1989年:大宮開成高等学校保健体育教諭着任。 1990年:第23回全日本社会人選手権の男子70メートルで344点の世界新記録を達成。 1992年:バルセロナオリンピックに出場。予選を9位で突破し、決勝トーナメント1回戦で、1989年世界選手権王者ではあるが予選を24位で通過したザブロドスキー(EUN)と対戦。序盤からリードを許し、106-108で敗退。17位に終わった。テレビ朝日の松井康真アナウンサーと密着取材で知り合う。 1996年:アトランタオリンピック19位。 2002年:釜山アジア大会優勝。 2004年:アテネオリンピックアーチェリー男子個人でマルコ・ガリアッツォに次いで銀メダルを獲得。彩の国功労賞を受賞。 2005年:書籍「最後は願うもの 41歳の銀メダル 」を出版。 2006年:大宮開成高等学校を退職し日本体育大学女子短期大学部助教授に就任。 W杯トルコ大会にて男子団体で守屋龍一(近大)金村賢(京都・莵道高)らと組み優勝。 トルコ大会直後、世界アーチェリー連盟発表の6月11日付ランキングで、日本人として初めて1位にランク付けされた。また同月27日付のランキングでも1位をキープ。書籍「持続力」を出版。 2007年:世界選手権最終選考会で4位に終わり、世界選手権連続出場が13回で途切れた。またアジア選手権でも成績が振るわず、北京オリンピック出場の可能性がなくなった。山本が国内予選で敗れてオリンピックに出場できないのは、モスクワ、シドニーに続いて3度目。 2009年:世界選手権大会日本代表予選3位通過により、日本代表選手(14度目)に内定する。6月、国体予選で男子70メートル(36射)で345点をマークし、自身が持っていた344点の日本記録を19年ぶりに更新。70メートルラウンド(72射)でも687点の日本新を出した。 2010年:書籍「山本博のゼロから始めるアーチェリー 」を出版。 2011年:弘前大学大学院医学研究科博士課程入学。 2013年:日本体育大学体育学部社会体育学科教授に昇格。第71回岩手国体・アーチェリー競技アドバイザリーコーチに就任。 2014年:4月、公益財団法人 東京都体育協会会長に就任。6月、東京オリンピック・パラリンピック競技委員会顧問会議 顧問。同年8月、全日本アーチェリー連盟は1ヶ月間(同年8月1日から31日まで)の資格停止処分を下した。書籍「山本 博のアーチェリー 上達バイブル 的中率を上げる50のコツ (コツがわかる本!)」を出版。 2015年:弘前大学大学院医学研究科博士課程修了。学位は博士(医学)。第72回えひめ国体・アーチェリー競技アドバイザリーコーチに就任。日本財団パラリンピックサポートセンター顧問に就任。書籍「がんばれ!盲目の犬レディ オリンピックメダリスト・山本博のわんわん物語」を出版。 2016年:公益財団法人 東京都体育協会会長 2期目。 2017年:日本体育大学アスレティックデパートメント長に就任。第74回茨城国体・アーチェリー競技アドバイザリーコーチに就任。 2018年:公益財団法人 東京都体育協会会長 3期目。日本体育大学スポーツマネジメント学部教授。
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