第二次世界大戦後の最盛期
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サンフランシスコ講和条約発効後もしばらくの間アメリカ軍による新港埠頭の使用は継続され、1956年(昭和31年)5月10日に埠頭の返還書に調印された。これを受けて1957年(昭和32年)8月28日に、第二次世界大戦後初めてのボート・トレインがC58形蒸気機関車の牽引により運行された。これはサンフランシスコ航路の氷川丸出航に合わせたものであった。しかし海外旅行は航空機の時代へと急速に移り変わっていき、1960年(昭和35年)8月27日の氷川丸出航に合わせて東京 - 横浜港間で運転されたボート・トレインを以て運行が終了となった。最後の日の牽引機は東京 - 鶴見間がEF58形電気機関車、鶴見 - 横浜港間が8620形蒸気機関車であった。 1955年(昭和30年)1月17日には、それまで東神奈川 - 高島間貨物支線上の駅であった東高島駅が、高島線上の駅に所属変更となった。これに合わせて千若信号場が東高島駅に統合されて廃止となった。東神奈川 - 高島間支線は東高島 - 高島間が高島線と重複することになったため東高島終点に変更となり1.4 kmが減少し、一方高島分岐であった横浜市場駅への支線も東高島分岐に変更されて1.4 km減少となり、さらに瑞穂駅への支線も入江駅分岐から東高島駅分岐に変更されて0.6 km減少となった。しかし1958年(昭和33年)5月1日には東高島 - 瑞穂間の支線は廃止となった。さらに横浜線の貨物輸送量減少に伴って、東神奈川駅から分岐する貨物支線は不要となり、1959年(昭和34年)4月1日に東神奈川 - 東高島間および東神奈川 - 海神奈川間が廃止となった。 一方で新規に建設される路線もあり、出田町埠頭の建設に伴って入江駅で分岐する出田町臨港線が1954年(昭和29年)から建設され、1955年(昭和30年)1月25日に供用を開始した。この路線は石炭の輸送が主で、横浜市の専用線の扱いであり駅は設置されていなかった。1億円あまりの建設費は横浜市と国が負担した。しかし最終的に1985年(昭和60年)4月1日に輸送量減少により全面休止となっている。 1962年(昭和37年)1月30日には高島 - 東横浜間が単線化されたが、これは桜木町への貨物線を建設するためであった。1964年(昭和39年)5月19日に根岸線の桜木町 - 磯子間が開通し、この路線へ連絡するために高島 - 桜木町間の単線の貨物線が同年6月1日に開通した。しかしまだ非電化であったため、当初はDD13形ディーゼル機関車が牽引していた。 1958年(昭和33年)には、山下埠頭が完成した。この埠頭へは横浜市の港湾整備計画により、横浜港駅から臨港線を延長することが計画されたが、経路上山下公園を通過することになるため、景観上の問題から強い反対が起きた。しかし他に経路を選択できないこと、日本経済の発展のためにやむを得ないものとして、15 mと長い橋桁を使用することやラーメン・ゲルバー構造の下部を円形にした構造を採用することなどで景観対策を行い、山下公園のもっとも山側に高架線で通すことで、1962年(昭和37年)12月に着工された(新規延長区間は山下臨港線や山下埠頭線などとも称される)。建設費は横浜市と国が負担したが、開業後の運営管理の取り扱いを巡って国鉄と横浜市の協議が難航し、開業したのは1965年(昭和40年)7月1日となった。この路線は国鉄の営業線として開業したが、山下埠頭駅における貨物取扱業務は公共臨港線として横浜市が神奈川臨海鉄道に委託していた。1969年(昭和44年)2月27日以降は国鉄からの委託で神奈川臨海鉄道が貨物取扱業務を行い、また施設の維持補修は横浜市が責任を負っていた。その後、根岸駅から本牧埠頭への貨物線も開通したが、これは神奈川臨海鉄道の本牧線としてであった。 1970年(昭和45年)9月15日に高島線鶴見 - 桜木町間の電化が完成し、根岸線方面への貨物列車が電気機関車の牽引に変わった。10月1日に高島線における蒸気機関車の通常運用が終了し、これを記念して10月10日・11日・18日の3日間、東京 - 横浜港間でD51形蒸気機関車牽引の「さよなら蒸気機関車号」が運転された。
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