第二次世界大戦後の核開発競争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 16:41 UTC 版)
「レオ・シラード」の記事における「第二次世界大戦後の核開発競争」の解説
1947年までには、シラードは以前から興味を抱いていた分子生物学の研究へと転向し、コールド・スプリング・ハーバー研究所のマックス・デルブリュックの元でファージ・コースに参加しのち、シカゴ大学社会科学科のアドバイザーとなるとともに放射線生物学・生物物理学研究所でアーロン・ノーヴィク (Aaron Novick) とともに自身の研究室を持った。しかしシラードはその後の大半の時間、大学へは立ち寄ることはなく、各地を渡り歩いて数多くの学者に接触し社会的活動を含む活動を継続した。デニス・ガボールによれば、1950年代の西側の主だった物理学者でシラードに会ったことのない人物はいなかったといい、学者同士が立ち話をしていると、どこからともなくシラードが現れ割り込んでくることは「シラード効果」として冗談の種にもされた。一方、こうした「流浪の教授」としてのシラードの地位と収入は不安定なものとなった。時はシラードが所属していた研究所の閉鎖のため、シカゴ大学の社会科学科に所属し生物学の研究を行う元物理学者という地位でさえあった。 原爆投下とともに幕を開けた戦後世界の見通しは、シラードにとって明るいものではなかった。終戦直後には「直面せざるをえない問題は、第三次大戦を経ることなく世界政府を…持てるかどうか」であるとし、そのチャンスは 1/10 ほどしかないと考えていた。1949年ソ連が原爆開発に成功し、翌年アメリカが水素爆弾開発の決定を下して米ソは際限のない核開発競争へと突入することになった。シラードは水爆開発への反対を公言し、すべての生命を死滅させることが可能な兵器さえ実現可能になるとして「コバルト爆弾」(cobalt bomb) のアイデアを提出した。このいわゆる終末兵器 (doomsday machine) は、単に水爆のタンパー(覆い)をコバルトに替えただけのものであり、その気になれば容易に作り出すことが可能なものであったが、とりわけ長期の強い影響を残すコバルト60を含む放射性降下物を生成し、シェルターへの短期間の退避を役に立たないものとする。
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