第二次世界大戦後の本国帰還
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:39 UTC 版)
「ソビエト連邦における強制移送」の記事における「第二次世界大戦後の本国帰還」の解説
1945年5月の欧州における終戦後、キールハウル指令(英語版)によって数百万人のソビエト市民がその意思によらずソビエトへ本国送還となった。これは1945年2月11日のヤルタ会談によりソ連とアメリカ合衆国、イギリスとの間で本国送還に関する合意書が締結された事による。 この協定によって、1945年から1947年の間に全てのソビエト市民が本人の意思に関わらず、強制的に本国送還となった。連合国当局はヨーロッパ駐留軍に何百万人もの旧ソ連居住者をソ連に送還するように命じた。その中にはドイツに協力した者や、ロシアを離れて久しく、他国の国籍を取得したものも大勢いた。 第二次世界大戦の終結時にはソ連からの避難民500万人がドイツで捕らわれの身となっていた。その内、300万人がドイツや東方の占領地で強制労働させられていたオスト・アルバイター(英語版)であった。 捕虜として生き残っていた約150万人とオスト・アルバイター、その他のソビエト出身の避難民総計400万人以上がソ連に本国送還となった後、NKVDの特別収容所(英語版)に送還となった(なお、グラグとは別の強制収容所である)。1946年までに80%の民間人と20%の元捕虜が解放され、5%の民間人と43%の元捕虜は再徴兵され、10%の民間人と22%の元捕虜は労働大隊(英語版)に送られ、2%の民間人と15%の捕虜はNKVD、すなわちグラグに送られた。
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