突然の事故死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/31 21:22 UTC 版)
2007年9月15日、自宅のあるラナーク周辺にて自身が操縦していた自家用ヘリが墜落し、39歳で死去。このヘリにはコリンの他に5歳の長男ジョニー、ジョニーの友達、マクレーの友人も同乗していたが、地元警察により全員の死亡が確認された。 その死はいち早くインターネットで報じられ、モータースポーツ関係者には広い交友関係を持っていたこともあって、WRC関係者やファンのみならず世界中のモータースポーツに関わる人間に深い衝撃と悲しみを与えた。同い年のマーカス・グロンホルム、マクレーの次代チャンピオンで、ライバル関係にあったトミ・マキネン、フォード、シトロエン時代の同僚であったカルロス・サインツ、フォード時代から親交のあったペター・ソルベルグをはじめとするラリードライバーや各ワークスチームなどWRC関係者を中心に、同じスコットランド出身であるF1ドライバーのデビッド・クルサード、WRC参戦の経験もあるMotoGPを代表する選手、バレンティーノ・ロッシなどラリー以外の多くのモータースポーツ関係者からも追悼の言葉が寄せられ、異口同音にマクレーの生前の活躍を賞賛し、早すぎる死を惜しんだ。国際自動車連盟も、9月16日付けで声明を出している。また公式ページの追悼メッセージ欄には5万件を超える書き込みが寄せられた。 葬儀はマクレー家の身内のみで静かに営まれた。9月30日夕方にはラナークの聖ニコラス教会で関係者を招いた追悼式が行われ、続いて追悼パレードがラナークのメインストリートで行われた。沿道にはラナークの人口(約8500人)を超える20000人近いのファンが詰め掛け、通りには100台を超えるスバル・インプレッサが配置された。一連の式典にはマーチ卿ことチャールズ・ゴードン=レノックス伯爵(グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードの主催者)、工藤一郎(スバルテクニカインターナショナル (STI) 社長)、デビッド・リチャーズ(プロドライブ創設者)、マルコム・ウィルソン(Mスポーツ代表)夫妻と息子のマシュー、ギィ・フレクラン(シトロエン・ラリーチーム代表)、アンドリュー・コーワン(元三菱・ラリーアート監督)、デレック・リンガーとニッキー・グリスト(それぞれコリンのコ・ドライバーを勤めた)、アリ・バタネンとマーカス・グロンホルム、ディディエ・オリオールら歴代WRC世界王者、パニエラ・ワルフリッドソン(ペター・ソルベルグの妻で元ラリードライバー、都合により出られなくなったペターの代理として出席)、デイモン・ヒル(元F1ドライバー、1996年世界王者、ブリティッシュ・レーシング・ドライバーズ・クラブ会長)、ダリオ・フランキッティ(IRL2007年王者、スコットランド出身)などイギリス国内外の多くのモータースポーツ関係者が姿を見せ、また日本GPに参戦していたデビッド・クルサードは日本からビデオでメッセージを寄せた。 追悼式の中で、2006年までスバルのラリー活動の陣頭指揮に当たり、長年マクレーと共に戦ってきたプロドライブのデヴィッド・ラップワースは「彼は、ファンにとってはアイルトン・セナやバレンティーノ・ロッシに匹敵する正真正銘のモータースポーツのヒーローである」と述べた。 翌年8月30日、故郷ラナークからプロドライブのあるバンブリーまでを、スバル車による50 kmの長さに及ぶ車列でパレード行進した。翌8月31日、1000台以上のスバル車で「Colin McRae」の文字と青地に斜め白十字のスコットランド旗が作られた。 2008年のアクロポリス・ラリーでは「Colin McRae Trophy」が設けられ、最も早い平均速度を出したジジ・ガリに賞が授与された。また、ラリー・スウェーデンではマクレーが豪快なジャンプを見せたクレスト(起伏)で最長飛距離を記録した者に「コリンズ・クレスト・アワード (Colin's Crest Award)」が贈られることになり、毎年多くの観客を集める人気ステージとなっている。これまでの最長記録はアイビン・ブリニルドセンが2016年に記録した45 m。
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突然の事故死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 07:29 UTC 版)
1994年12月8日の天馬特別で8着に大敗し連勝が止まると、翌1995年はまたしてもムラ駆けを繰り返すようになる。5月18日の山吹特別で2着に入線した後、秋へ向けて休養に入る。これが最後のレース出走となった。 1995年8月17日、調教を終えたカネユタカオーが厩舎へ帰っていたところ、その途中に居眠り運転のトラックが突っ込んできて正面衝突した。カネユタカオーは一度は立ち上がったものの、厩舎の洗い場まできて倒れ込み、そのまま死亡した(旧馬齢8歳没)。獣医の診断による直接の死因は内臓破裂だった。 宇都宮競馬場の厩舎は競馬場内ではなく周辺に点在(敷地内に8厩舎、周辺に27厩舎ほど。通称『外厩舎』)していたことから、調教やレース出走の前後には馬が厩務員に引かれて公道を歩くという光景が当たり前のように見られた。2003年1月には菅原欣也厩舎の在厩管理馬であったトウキュウコマンドにバイクが激突し、運転していた新聞配達員の女性が死亡する事故(馬は軽傷)が起きているように、カネユタカオーの事故死の前後にも度々人馬が死傷する事故が発生しており、こうした『外厩舎』の問題は売上低下の続いていた宇都宮競馬場にとって解決しようにもし難い難題であった。競馬実況アナウンサーの大川充夫は当時の関係者への取材から「『外厩舎』問題が(後年の)宇都宮競馬廃止の大きな要因であった」と指摘している。 死後、カネユタカオーの鬣と蹄は金田の自宅の庭に葬られた。また、宇都宮競馬場はその功績を讃え重賞『カネユタカオー記念』を創設した。
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