社会党委員長として
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1983年、参院選で社会党が敗北すると飛鳥田委員長が辞任し、後任の中央執行委員長となった。石橋は内閣総理大臣中曽根康弘を相手に非武装中立論を世界に広めるべきという論争を仕掛け、社会党の存在をアピールする一方、公明党・民社党といった中道政党との連携、すなわち社公民路線をすすめた。自衛隊に関しても、『違憲合法論』を打ち出し、将来は自衛隊をなくし非武装にするという原則は守りつつ、当面は自衛隊の存在を直視する土台を作ろうとした。「違憲なのに、合法というのは矛盾している」と党内外から批判されたが、石橋は「最高裁判所は、1票の格差が大きすぎて違憲と判決した選挙結果を合法と認めている」という例を持ち出し、党大会で『違憲法的存在』と修正した上で認められた。 1986年には「日本社会党の新宣言」を採択させ、1964年以来のプロレタリア独裁を目指したマルクス・レーニン主義(科学的社会主義)に基づく「日本における社会主義への道」を歴史的文書として棚上げし、西欧型の社会民主主義政党へと社会党を脱皮させようとした。 社会党は、与党に対し対案を提示することは「資本主義社会の是認に繋がる」として止めてしまっていた。石橋の目的は社会党を「何でも反対すること」を自己のアイデンティティとする政党ではなく、また共産党を含めた全野党共闘路線とも違い、自民党との政権交代可能な政党へと脱皮させることにあった。西欧の社会民主主義政党は、外交や安全保障など国家の基本政策では保守と一致しつつ、生活に根ざした政策の細部で競うという現実路線を採っていたが、石橋の「社公民路線」もその路線を進む第一歩になりうるものだった。 だが、現実的で国民を引きつける政策を提示することができず、一方で表面では自民党と激突しているように見えても、その裏では自民党と「国対政治」で繋がっているのが実態だった。また地方選挙では、自公民に社会党も加わった相乗り体制を形成することとなった。このように現実的な政策を提示できない政策立案能力のなさやマルクス・レーニン主義を一掃できなかったこと、北朝鮮との蜜月、非武装中立への固執を続けたことなどが有権者の社会党離れ、無党派層の形成へとつながり、日本政治の閉塞状態を打ち破るのに有権者は社会党ではなく、自民党内の改革派に期待するようになっていった。 皮肉にも1986年6月の衆院選で社会党は86議席と惨敗し、石橋は委員長を退任することになる。
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社会党委員長として
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1967年、臨時総会で健康保険法改正案の決議を巡って対立した責任を取って佐々木更三委員長はじめ、執行部が退陣すると、成田も書記長を辞任した。しかし、1968年8月、勝間田清一委員長が第8回参議院議員通常選挙で社会党が敗北した責任を取って辞任したため、委員長に就任し、書記長に江田三郎を指名した。政治家としてのキャリアでは上である江田が成田の下に配置されたこの人事は「逆子人事」と呼ばれた。 1969年の第32回衆議院議員総選挙で100議席割れの大敗を喫し、辞意を表明するが、佐々木派や社会主義協会にも支持基盤のある成田は辞任を認められず、その後も佐々木派や社会主義協会の支持で委員長を続投していくこととなった。江田が委員長選挙に挑戦するため書記長を辞任すると、石橋政嗣を書記長に任命し、以後、成田-石橋のコンビで党を運営していった。 しかし、党内では親中派の佐々木派と親ソ派の社会主義協会が対立をはじめ、1974年には江田と佐々木が和解して、反協会派を結成すると、反協会派と社会主義協会の間でも対立が始まった。成田はこうした党内の対立をおさえるためのリーダーシップをほとんど発揮することが出来なかった。 成田委員長の時代は、革新自治体が各地で数多く誕生していた時期で、「地方から中央を包囲する」などと意気盛んな声が社会党内から出されていたが、実際には社会党の地方組織は1970年代後半から革新自治体のパートナーであった公明党や日本共産党に侵食され、社会党組織の疲弊が進んでいた。 1977年、参院選敗北の責任を負って委員長を辞任。1979年3月9日、白血病で急死した。
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