社会党の議員へ
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1979年、愛知県議会議員選挙に出馬し、初当選を果たした。以後3期務める。 1990年1月26日、3期目の任期途中に県議を辞職。同年の第39回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧愛知6区から出馬し、当選した。総選挙後の1991年、田邊誠日本社会党委員長の下で党労働局長に就任。 1993年1月、自由民主党の金丸信元副総裁が失脚し、国会対策委員長時代から金丸ら自民党国対に太いパイプを築いていた田邊委員長が、自社両党間の不適切な癒着関係を疑われ辞任に追い込まれる。代わって就任した山花貞夫委員長の下で、社会党書記長及び社会党シャドーキャビネット内閣官房長官に起用された。 書記長時代は党の基本政策の見直しに意欲を見せ、1993年2月、社会党の旧来の主張を翻してコメ関税化肯定、原子力発電所容認を表明した。 同年7月の第40回衆議院議員総選挙では旧愛知6区で再選されたが、社会党は日本新党(細川護煕代表)、新党さきがけ(武村正義代表)、新生党(羽田孜党首)が巻き起こした新党ブームの煽りを受け、惨敗を喫する。 同年8月、社会党を含む8党派による細川内閣が発足し、社会党委員長の山花も国務大臣(政治改革担当)に就任し入閣したが、それに伴い委員長を辞任したため、赤松も書記長を退任する。後任はそれぞれ村山富市、久保亘が就任した。 同年12月、社会党内の右派・中間派約40人で結成された新派閥「デモクラッツ」に参加し、事務局長を務める。 1994年、羽田内閣発足直後に社会党は連立を離脱。村山富市委員長や国会対策委員長の野坂浩賢らが水面下で自民党の亀井静香らに接触し、自民・社会・さきがけ3党による新しい枠組みでの連立政権の樹立を志向したのに対し、赤松らは羽田内閣への復帰を主張し、自民党を含めた連立政権の樹立に抵抗した。 ただし、その後3党合意がなされ、村山富市が擁立された1994年6月の首班指名選挙では、赤松は村山に投票した(1996年1月の、村山首相辞任に伴う首班指名選挙では橋本龍太郎自由民主党総裁に投票せず、白票を投じた)。
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