社会党の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 05:27 UTC 版)
第2次アミル・シャリフディン内閣がオランダとの停戦協定(レンヴィル協定)の承認をめぐる混乱によって総辞職すると、1948年1月29日、副大統領ハッタが組閣することになった。このハッタ内閣を支持するか否かをめぐって、社会党が分裂した。 Parsi系のアミル派は、アミル自身の内閣が締結したレンヴィル協定の承認を支持しなかった。Paras系のシャフリル派はハッタ内閣を支持して社会党を離脱した。社会党内で「外交路線」を標榜していたシャフリル派が離脱したことにより、アミル派が多数を占めた同党は急進化し、オランダとの「闘争路線」に傾斜した。その後、アミル派はインドネシア共産党(PKI)に合流した。 1948年9月18日、東部ジャワのマディウンで、PKI系の武装組織が決起すると、PKI指導者ムソとアミルもマディウンに駆けつけ、ハッタ政権の打倒を呼びかけた。しかしこの「反乱」は1ヶ月あまりで鎮圧され、ムソ、アミルも捕らえられて処刑された。
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