社会党幹部として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:31 UTC 版)
1970年の第34回定期大会で書記長に選出される。以後、7年間にわたって、成田知巳委員長とコンビを組み(成田・石橋体制)、社会党を支えた。石橋は経費の節約による財政再建をすすめる一方、文書の言葉を日常使われる言葉になおさせたり、党員に対して日常活動を勧めるなど、長期低落に陥った党の再建に全力を注いだ。その結果、一時的に党勢は上向いたが、党員の体質を根本的に変えることは出来なかった。 1977年、参院選で社会党が敗北すると成田委員長と共に書記長を辞任する。飛鳥田一雄委員長の下で副委員長となるが、飛鳥田が書記長に若手の馬場昇を抜擢したことに抗議して、副委員長を辞任した。
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