社会党時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:46 UTC 版)
茨城県大子町出身。茨城県立太田第一高等学校から中央大学法学部に進学。在学中から左翼思想に傾倒し、活動にいそしむ。苦学の末、司法試験に合格する。司法修習所での研修を経て、弁護士開業。 1974年、第10回参議院議員通常選挙の茨城県選挙区に日本社会党から立候補し、当選。以後、改選数2で、「自民党と社会党の指定席」と言われた同選挙区で4回の当選を果たす。その間、党内では茨城県本部委員長となり、左派系の論客として知られ、参議院では予算委員会等での自民党政権追及に活躍、「参院の爆弾男」と呼ばれた。 1994年、社会党が与党して参加した細川護煕内閣が政治改革関連諸法案を上程し、社会党も公職選挙法改正賛成を決定したのに際し、矢田部はそれまで社会党が抵抗してきた小選挙区制の導入が含まれると反対して参議院本会議採決で反対票を投じ、処分された。続いて、社会党が自民党・新党さきがけとの連立を組んで村山富市委員長が首相になったのを受けて、従来の基本方針を転換して日米安保条約を容認し自衛隊を合憲と規定し、次いで1996年1月から社会民主党への党名改称を決めると、党名改称直前の1996年1月1日に小森龍邦らと共に離党を宣言し(党は離党届を受理せず除名処分を下した)、新社会党を結党して初代委員長となった。
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