社会党離党と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 19:01 UTC 版)
1970年の委員長選挙でも敗れた江田は、公明党・民社党との社公民路線による政権獲得を主張したが、当時の委員長成田知巳らは日本共産党をも加えた全野党共闘を主張し、江田の主張には耳を傾けなかった。 自民党がロッキード事件で大きく揺れる1976年、社公民路線を推進するため公明党書記長矢野絢也や民社党副委員長佐々木良作ら両党の実力者とともに「新しい日本を作る会」を設立するが、これが社会主義協会系の活動家たちの逆鱗に触れた。同年12月の第34回衆議院議員総選挙では落選し、明けて1977年の党大会では社会主義協会系の活動家たちから吊し上げられる。この結果、江田は社会党改革に絶望して離党しようとしたものの、離党届を受け付けられず、逆に除名処分を受けた。 離党後の1977年3月、菅直人らとともに社会市民連合(社会民主連合の前身)を結成し、同年の第11回参議院議員通常選挙に全国区から立候補することを表明したが、病魔は江田を襲っていた。5月2日に2カ月で7キロ痩せ疲れやすいということから慈恵医大病院で診察を受けた検査結果は肺がんですでに手遅れの状態。査だけで帰った。入院したのは5月11日、すでにガンは全身に転移していた。5月22日、肺癌のため69歳で死去。代わりに息子の江田五月が急遽出馬し、第2位で初当選した。
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