異母妹の死――松阪へとは? わかりやすく解説

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異母妹の死――松阪へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:46 UTC 版)

梶井基次郎」の記事における「異母妹の死――松阪へ」の解説

1924年大正13年7月2日3歳八重子家族全員看病甲斐なく結核性脳膜炎急逝した。貧乏で死なせてしまったことを不憫に思ったのか、父・宗太郎悲しみ酔いつぶれた夢の中でも「南無妙法蓮華経」を唱えて、指の先で畳を擦っていた。落胆様々な思いが基次郎の胸に去来し計画していた5幕物の戯曲浦島太郎」の執筆断念し短編小説を書く決意をした。 小さな躰が私達知らないものと一人で闘つてゐる 殆ど知覚を失つた躰にやはり全身的な闘をしてゐる それが随分可哀さうでした大勢兄弟守られ死にました中略)妹の看病をしてゐる時私はふと大きなちいさなの死ぬのを傍に寄添つてゐる――さういふ風に私達想像しました それは人間理智情感を備へてゐる人間達であると私達思ふよりより真実な表現ある様に思はれました、全く感情灰神楽です。夕立に洗はれた静かな山の木々の中で人間帰り度いと思ひます。 — 梶井基次郎近藤直人宛て書簡」(大正13年7月6日付) 初七日済み若山牧水の『みなかみ紀行』を買って夜の街散歩した次郎は、〈綴り間違つた看板の様な都会の美〉や〈華やかな孤独〉を感じ、〈神経衰弱に非ざればある種の美が把めないと思つてゐる〉として、それを書くためには〈精力〉が必要だという心境友人らに宛て綴ったこの頃、よく血痰吐いていた基次郎は、不安定敏感な感覚の精神状態中にいたが、その自意識過剰の惹き起こす苛立ちや、日常認識から解放され地点で、感覚そのものを見つめ、五感総動員して秘かな美」を探ることに次第意識的になっていった。 また近藤直人新京極散歩中に見た蛸薬師絵馬から、〈表立つ人々には玩賞されないが市井の人子供に玩賞せられるこの様な派の存在〉に気づかされた。中之島図書館帝大角帽被って行く〈学生時代特権意識〉と〈軽いロマンティシイズム〉を感じて、〈一面恥かしく、一面軽く許す気〉にもなった。この頃草稿を売る男」が書かれたと推定されている。 8月、姉夫婦宮田一家が住む三重県飯南郡松阪町殿町1360番地(現・松阪市殿町)へ養生兼ねて、母と末弟・良吉を連れて滞在した。基次郎都会に倦んだ神経休め異母妹の死を静かな気持考えた。母と末弟先に帰った後も、松阪城跡を歩き風景スケッチ草稿ノート書き留めた。これがのちの「城のある町にて」の素材となる。 9月初旬京都行った次郎は、加茂河原風景の中で心を解放し言葉風景スケッチした後、東京下宿戻って同人雑誌創刊のため喫茶店広告取りをし、掲載する作品創作にも勤しんだ。この頃初恋の思い出草稿宇野浩二の『蔵の中』に影響され饒舌体で書き草稿を売る男」や「病気」を原稿用紙にまとめ直そうとしていたと推定されている。 この時期大阪実家玉突き屋を閉店し大阪府東成郡天王寺村大字阿倍野99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番12号)に引っ越した。そこで母・ヒサは、羽織の紐などの小物駄菓子を売る小間物屋開店した

※この「異母妹の死――松阪へ」の解説は、「梶井基次郎」の解説の一部です。
「異母妹の死――松阪へ」を含む「梶井基次郎」の記事については、「梶井基次郎」の概要を参照ください。

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