異母妹の死――松阪へ
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1924年(大正13年)7月2日、3歳の八重子は家族全員の看病の甲斐なく結核性脳膜炎で急逝した。貧乏で死なせてしまったことを不憫に思ったのか、父・宗太郎は悲しみ酔いつぶれた夢の中でも「南無妙法蓮華経」を唱えて、指の先で畳を擦っていた。落胆や様々な思いが基次郎の胸に去来し、計画していた5幕物の戯曲「浦島太郎」の執筆を断念し、短編小説を書く決意をした。 小さな躰が私達の知らないものと一人で闘つてゐる 殆ど知覚を失つた躰にやはり全身的な闘をしてゐる それが随分可哀さうでした、大勢の兄弟に守られて死にました (中略)妹の看病をしてゐる時私はふと大きな虫がちいさな虫の死ぬのを傍に寄添つてゐる――さういふ風に私達を想像しました それは人間の理智情感を備へてゐる人間達であると私達を思ふよりより真実な表現である様に思はれました、全く感情の灰神楽です。夕立に洗はれた静かな山の木々の中で人間に帰り度いと思ひます。 — 梶井基次郎「近藤直人宛ての書簡」(大正13年7月6日付) 初七日が済み、若山牧水の『みなかみ紀行』を買って夜の街を散歩した基次郎は、〈綴りの間違つた看板の様な都会の美〉や〈華やかな孤独〉を感じ、〈神経衰弱に非ざればある種の美が把めないと思つてゐる〉として、それを書くためには〈精力〉が必要だという心境を友人らに宛て綴った。 この頃、よく血痰を吐いていた基次郎は、不安定で敏感な感覚の精神状態の中にいたが、その自意識の過剰の惹き起こす苛立ちや、日常の認識から解放された地点で、感覚そのものを見つめ、五感を総動員して「秘かな美」を探ることに次第に意識的になっていった。 また近藤直人と新京極を散歩中に見た蛸薬師の絵馬から、〈表立つた人々には玩賞されないが市井の人や子供に玩賞せられるこの様な派の存在〉に気づかされた。中之島図書館に帝大の角帽を被って行く〈学生時代の特権意識〉と〈軽いロマンティシイズム〉を感じて、〈一面恥かしく、一面軽く許す気〉にもなった。この頃、草稿「犬を売る男」が書かれたと推定されている。 8月、姉夫婦の宮田一家が住む三重県飯南郡松阪町殿町1360番地(現・松阪市殿町)へ養生を兼ねて、母と末弟・良吉を連れて滞在した。基次郎は都会に倦んだ神経を休め、異母妹の死を静かな気持で考えた。母と末弟が先に帰った後も、松阪城跡を歩き、風景のスケッチや草稿ノートを書き留めた。これがのちの「城のある町にて」の素材となる。 9月初旬に京都に行った基次郎は、加茂の河原の風景の中で心を解放し、言葉で風景をスケッチした後、東京の下宿に戻って同人雑誌の創刊のため喫茶店の広告取りをし、掲載する作品創作にも勤しんだ。この頃、初恋の思い出の草稿を宇野浩二の『蔵の中』に影響された饒舌体で書き、草稿「犬を売る男」や「病気」を原稿用紙にまとめ直そうとしていたと推定されている。 この時期、大阪の実家は玉突き屋を閉店し、大阪府東成郡天王寺村大字阿倍野99番地(現・阿倍野区王子町2丁目14番地12号)に引っ越した。そこで母・ヒサは、羽織の紐などの小物や駄菓子を売る小間物屋を開店した。
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