異母兄エンリケとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 04:53 UTC 版)
「ペドロ1世 (カスティーリャ王)」の記事における「異母兄エンリケとの対立」の解説
「第一次カスティーリャ継承戦争」および「百年戦争」も参照 こうして始まった治世は、有力貴族を弾圧して王権強化策をとり、下級貴族の文官やユダヤ人を登用した。しかし、エンリケが1366年に国内の多くの不平分子を結集して武装蜂起した(第一次カスティーリャ継承戦争)。反乱軍は、アラゴン王ペドロ4世やフランス王シャルル5世と同盟していた。 1337年からイングランド王国とフランス王国は百年戦争の渦中にあった。一連の戦乱の中、フランス王シャルル5世は、1365年にブルターニュ継承戦争では敗北するが、1369年にはフランドル女伯マルグリットを弟フィリップ(豪胆公)と結婚させてイングランドの勢力拡大を防いだ。シャルル5世は、フランスが劣る海軍力を持つカスティーリャに接近を図るため、フランス亡命中のエンリケを支援した。 1356年9月のポワティエの戦い以降、フランス王国は盗賊と化した傭兵の扱いが社会問題化しており、その解決策としてベルトラン・デュ・ゲクランに傭兵を率いさせ、カスティーリャ遠征を企図した。1366年1月に、カスティーリャ遠征が開始されると、ゲクランは3か月で首都ブルゴスを陥落させて、エンリケを戴冠させた。 国を追われたペドロ1世は、アキテーヌへ亡命する。イングランド王エドワード3世は、同地を息子のエドワード黒太子に委ねており、1363年から「アキテーヌ大公」として宮廷を開いていた。 9月23日、ペドロ1世は領土の割譲を条件に黒太子とリブルヌ条約(フランス語版)を結んだことから、ペドロ1世とエンリケの戦いは、英仏の代理戦争の様相を呈した。翌1367年4月3日、カスティーリャに帰還すると、グラナダ王とも結んだペドロ1世と黒太子はナヘラの戦いに勝利し、デュ・ゲクランを捕虜にした。しかし、エンリケは敗走した。
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