異母兄・惟常らとの争いとは? わかりやすく解説

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異母兄・惟常らとの争い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:44 UTC 版)

藤原基衡」の記事における「異母兄・惟常らとの争い」の解説

大治3年1128年)に父清衡が死去。翌大治4年1129年)、異母兄である惟常ら兄弟との争乱記録されている。基衡は惟常の「国館」(国衙事と思われる)を攻め異母弟圧迫に耐えかねた惟常は小舟乗って子供含め二十余人引き連れて脱出し越後国落ち延びて基衡と対立する他の弟と反撃出ようとするが、基衡は陸路軍兵差し向け逆風受けて小舟出発地押し戻され所を捕らえ、惟常父子らを斬首したという。 この当時、惟常は跡継ぎ意味する小館」と称されて独自の屋敷構えており、対して基衡は「御曹司」と称されて清衡と同じ屋敷住んでいたといわれている。今でこそ、「御曹司」という言葉跡取りの意味合いが強いが、当時は「そこに住まう人」や「居候」という意味だった。後に源義経も「そこに住まう人」や「居候」という意味で「御曹司」と称されている。この観点から言えば正当な家督相続者は惟常で基衡は簒奪者だった。また、長子相続絶対時代ではなかったため、このような事態平然と起こり得たこの内乱の背景について第一に考えられていることは、清原氏の娘を母に持つ惟常を担ぐ家臣団と、安部氏の娘を母に持つ基衡を担ぐ家臣団との小競り合いがあったということである。またそれぞれの家臣団独立性が非常に強かったことから、奥州藤原氏当主となった基衡は内乱終結後当主権力強化確立、そしてそれによる家臣団統制乗り出すことになる。その過程で基衡を支えたのが、佐藤基治やその息子達の継信・忠兄弟輩出した信夫佐藤氏であった

※この「異母兄・惟常らとの争い」の解説は、「藤原基衡」の解説の一部です。
「異母兄・惟常らとの争い」を含む「藤原基衡」の記事については、「藤原基衡」の概要を参照ください。

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