生い立ち/経歴
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東京都文京区出身。三人兄弟の末っ子として生まれる。1970年文京区立誠之小学校卒業後、麻布中学・高等学校に進学。麻布の同期に、生命科学者の石川冬木(京都大学)、外交官の堀之内秀久(ロサンゼルス総領事, カンボジア大使, オランダ大使)、山崎達雄(財務官)、高木邦格(国際医療福祉大学理事長)等がいる。1976 年に東京大学理科一類に入学。同級に、物理学者の五神真(東京大学総長)、斎藤理一郎(東北大学)等。数学好きではあったが、自然科学よりも語学や社会現象に興味があり、文科系に転向する。1978年教養学部教養学科国際関係論学科に進学、同級に外交官の上月豊久(欧州局長, 大臣官房長, ロシア大使)、野田仁(香港総領事,エクアドル大使,ルーマニア大使)、山崎純(国連大使,儀典長,スウェーデン大使,シンガポール大使)、高橋礼一郎(アフガニスタン大使,ニューヨーク総領事,オーストラリア大使)、嘉治美佐子(ジュネーヴ代表部大使,クロアチア大使)、国際政治学者の古城佳子(東京大学)、江川雅子(東京大学理事,一橋大商学部), 萩原誠司(岡山市長、衆院議員)等がいる。同級生に誘われて参加した外交官試験の勉強会で初めて経済学に触れ、本格的に勉強し始める。国家公務員上級試験(経済職)に合格するが、経済学の勉強を続ける決意をする。 1980年4月に東京大学大学院経済学研究科に進学。小宮隆太郎、浜田宏一、根岸隆、石川経夫等の指導を受ける。また在学中に着任してきた伊藤元重、岩井克人、西村清彦(日本銀行副総裁)等にも短期ながら指導を受けている。当時大学院には、二年上に清滝信宏(プリンストン大学,97年中原賞)、二年下に神取道宏(東京大学,02年中原賞)、三年下に松島斉(東京大学,04年中原賞)がいた。1982年10月から留学するまで日本銀行金融研究所で客員研究員の奥野正寛(当時横浜国立大)のリサーチアシスタントとして勤務。 フルブライト奨学生として1983年9月にハーバード大学経済学部博士課程に留学。ジェフリー・サックス、ローレンス・サマーズ(世界銀行チーフエコノミスト,米国財務長官,ハーバード大学総長)、グレゴリー・マンキュー等に指導を受ける。同級生にフィリップ・アギオン(コレージュ・ド・フランス)、アビジット・バナジー(MIT,2019年ノーベル賞)、マティアス・デュワトリポン(Universite Libre de Bruxelles)、Miles Kimball (ミシガン大学)、アラン・クルーガー(プリンストン大学)、タイラー・コーエン、Douglas Elmendorf、ヌリエル・ルビーニ等。清滝信宏はここでも二年上だった。又同じマサチュセッツ州ケンブリッジ市にあるMITの経済学部博士課程に市村英彦 (University College London, 東京大学)や星岳雄 (UC San Diego, Stanford大学, 東京大学、05年中原賞)がいた。1987年にPh.D in Economicsを取得。 1987年9月からノースウェスタン大学経済学部助教授。共著者の一人の松井彰彦(東京大学,07年中原賞)は当時同大学院生。1991年9月から同准教授、1995年9月から同正教授。1991年度に一年間、スタンフォード大学にあるフーバー研究所にNational Fellowとして訪問。1996年に日本経済学会から中原賞受賞。1999年にはEconometric Society のフェローに選ばれている。1993年にシカゴ大学、2008年にMITで客員教授として教えた他、短期で世界各国の大学や研究所を頻繁に客員として訪問したり集中講義をしている。また近年数々の国際学会に招待されて基調講演をしている。2014年からキャノングローバル研究所のInternational Senior Fellow、2018年12月には初代の東京財団政策研究所長に就任。
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生い立ち・経歴
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「エイドリアン・スミス (政治家)」の記事における「生い立ち・経歴」の解説
ネブラスカ州スコッツブラフで生まれ、小さい頃にゲーリングへ引っ越す。1989年にゲーリング高等学校を卒業したのち、バージニア州リンチバーグにあるリバティ大学に入学。2年生の途中でネブラスカ大学リンカーン校へ転学、1993年に卒業した。リンカーン校在学中、州知事室でインターンをし、その後州議会でアルバイトをしていた。大学卒業の翌年である1994年に地元ゲーリングに戻り、市役所職員となる。 また、民間企業でも働いた経験があり、不動産業者でマーケティングを担当していた。
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生い立ち・経歴
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1979年、大阪府生まれ。幼少期は父の仕事の関係で香港で、実業家の父と倹約家な母のもと、二人の兄とともに育つ。 1991年、同志社国際中学に入学。 1997年、同志社大学経済学部入学。ゴルフ部に所属。 2001年、新卒でリクルートグループに入社。入社後、数カ月で家庭の事情により退職。(家業を手伝う。) その後、渡米。 2003年、アパレル事業を大阪で起業。起業中に飲食、音楽、複数の事業に携わる。 その後、渡韓。 2008年、機械系商社に就職。 2010年12月、日系上場企業グループ(機械メーカー)に出向、2011年同法人の韓国法人代表に就任。 2013年出向解除、同年、オリックス株式会社(環境エネルギー本部)に入社。 2018年、同法人傘下にて、オリックス・リニューアブルエナジー・マネジメント株式会社の設立を戦略責任者として牽引。 2021年、オリックス・リニューアブルエナジー・マネジメント株式会社執行役副社長に就任(戦略責任者兼任)。
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生い立ち・経歴
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「ロバート・ヴェンチューリ」の記事における「生い立ち・経歴」の解説
フィラデルフィアにて、父ロバート・ヴェンチューリ・シニア、母ヴァンナ・ヴェンチューリのもと誕生した。クエーカー教徒として育てられる。ペンシルベニア州メリオン(英語版)のエピスコパル・アカデミー(英語版)に通った。1947年にプリンストン大学を最優等(summa cum laude)で卒業した。在学中、彼はファイ・ベータ・カッパ協会(英語版)会員に選ばれ、建築家としてダマト賞(D'Amato Prize)を受賞した。1950年に美術学修士(英語版)を取得。プリンストン大学ではボザール様式の教育的枠組みのもと挑発的なデザインスタジオを提供していた教授、ジーン・ラバトゥ(Jean Labatut)の下で教育を受けた。このことは彼が様式的な用語ではなく、分析的な用語で語られる、建築史と商業建築から引き出された、建築理論(英語版)とデザインに対するアプローチを発展させる上で重要な要素となった。1951年、ミシガン州ブルームフィールドヒルズにてエーロ・サーリネンの下で短期間働いたのちフィラデルフィアのルイス・カーンの下に移る。1954年にローマ・アメリカン・アカデミー(英語版)の主催するローマ賞フェローシップを受賞し、ヨーロッパで2年間遊学した。 1959年から1967年までペンシルベニア大学に職を得て、カーンのティーチング・アシスタント、講師、のちに准教授として勤務する。1960年、同僚教員であった建築家、プランナーのデニス・スコット・ブラウン(英語版)と知り合う。同大学を退いたのちイェール大学建築学部(英語版)で教鞭をとり、2003年にはハーバード大学デザイン大学院でスコット・ブラウンとともに客員講師を務めた。2018年9月18日にアルツハイマー病の合併症で死去。享年93歳。
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生い立ち・経歴
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「スサナ・マルティネス」の記事における「生い立ち・経歴」の解説
1959年7月14日にテキサス州リオ・グランデ・バレーにて、メキシコ系アメリカ人の中流家庭の両親の元で誕生し、テキサス州エル・パソで育つ。2人の姉妹兄弟がいる。父親のジャコボ(ジェイク)はエル・パソの元副保安官で1950年代にアメリカ海兵隊として朝鮮戦争に従軍している。また父親は16歳からボクシングをやっており、アメリカ海兵隊員の時にゴールデングローブで3回優勝するなど1950年代に有名だった。エルパソのリバーサイド高校で生徒会長をやっており、彼女は優秀な成績で1977年に卒業し、大学ではテキサス大学エルパソ校で刑事裁判を学び学士号を取得した。大学卒業後は父親の警備会社で働いていた。また1981年にはオクラホマ大学で法学を学び法務博士の学位を取得し、1986年に卒業した。夫であるチャック・ブランコと出会い、1980年代にニューメキシコ州ラスクルーセスに移住している。オクラホマ大学卒業後にニューメキシコ州ドニャアナ郡の地方検事補として女性や性的虐待を受けた子供達・家庭内問題・レイプ・性犯罪などの問題に取り組んだ。彼女の仕事は高く評価されており、上司であるラスクルーセスの地方裁判所の裁判官は彼女を副検事に昇格し、1992年まで務めた。彼女は民主党員だったが1995年に所属政党を共和党に切り替えた。そして1996年に第3回ニューメキシコ州の司法管轄区に選出され、その後も3回当選して、14年間地方検事を務めた。汚職問題・児童虐待事件などの問題を焦点に彼女は取り組んだ。また、彼女の地方検事としての仕事ぶりは、2008年にハート・マガジン誌の「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれ、2010年には法律専門のステート・バー・オブ・ニューメキシコから「プロセキューター(検察官)・オブ・ザ・イヤー」に選ばれるなど評価されている。2010年にニューメキシコ州知事の共和党候補に立候補した。州知事選挙では保守派運動であるティーパーティー運動のアラスカ州のサラ・ペイリン州知事らに支持された。共和党の指名を勝ち取って民主党候補のダイアン・デニッシュにも勝利し、2010年に11月2日に当選を果たし、2011年1月1日に第31代ニューメキシコ州知事に就任した。彼女はニューメキシコ州初の女性及びヒスパニック系知事となった。
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生い立ち・経歴
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南部藩の商人の父、西田耕平の娘として生まれる。一家は明治維新後上京して貿易商を営んだ。母みよは武家の出で、京は幼少時、しばしばその江戸藩邸で過ごした。横浜共立女学校に入学し在学中に横浜海岸教会で受洗、このときの級友に福沢諭吉の娘がいる。さらに竹橋女学校で英語を学び、1881年に英語教師として桜井女学校に就職。通っていた麹町教会を通じて知り合った頌栄女学校の絵画教師で資産家の岡見千吉郎と1884年に結婚。夫や母校の教師でもあった米国長老教会派遣宣教師メアリー・トゥルーの影響を受けて、京は貧民伝道に取り組み、彼らへの医療活動の必要性を感じて医師免許取得のため海外への留学を目指すようになる。 1884年ミシガン農科大学で学ぶためにアメリカ合衆国に渡航した夫・千吉郎に続いて渡航し、クエーカー系のペンシルベニア女子医科大学で学び、四年後にM.D.の学位を得る。フィラデルフィアではキリスト友会婦人外国伝道協会会長でありクエーカ教徒の慈善家で富豪のモリス家夫妻の後見を得た。 1989年3月に卒業して夫ともに5月に帰国し、8月に医籍登録をして医術開業免許状が授与された(女性登録者として5番目)。東京慈恵医院に雇われ、 1890年から産婦人科あるいは婦人小児科の主任を務めたが、1892年に辞職。理由は明治天皇(皇后とも)の同医院訪問の際、主任医師として京が案内する予定だったが、女性であることを理由に辞退を求められたことに対する抗議と言われている。辞職後は自宅で医院を開業のほか、岡見家が経営する頌栄女学校の教頭を務めた。 宣教師メアリ・トゥルーの立案で女性のための療養所と看護学校設立が計画され、夫ともにその準備に関わり、モリス夫妻の援助も得て、1893年に新宿角筈に結核療養施設「衛生園」と看護婦養成所を開設、京が園長となった。しかし、伝道会の意向により入院料がかなり高額なうえ、利用者は外国女性や宣教師に限定されたため、やがて経営的に立ちいかなくなり、フィラデルフィアからの資金援助が打ち切られた1906年に廃業した。以後家庭に入り、岡見家の頌栄幼稚園園長を務めたほか、女子学院でも英語と生理学を教えるなどしたのち、乳癌で死去。
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生い立ち・経歴
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1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(大分県中津市殿町)に、中津藩家老・小幡氏の中津藩士で、供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。幼時から父に四書五経を習い、中津藩の藩校・進脩館(しんしゅうかん) で藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山らに就き漢学を学び、教頭となるが、1864年(元治元年)、福澤諭吉の勧めで江戸に出る。江戸では福澤の塾に入って英学を学び、塾長を務める(1866年(慶応2年)から1868年(慶應4年/明治元年)まで)。また、江戸幕府の教育機関である開成所で弟・甚三郎とともに英学教授手伝にもなった。 1868年出版の著書『天変地異』は、雷、地震、彗星、虹といった自然現象について、「婦人小児の惑を」解くためのわかりやすい科学的解説を与えた本である。当時広く信じられていた陰陽五行思想を退け、近代的な科学知識を広めようとした本で、明治時代初めの科学啓蒙書ブームの先頭を切った。学制発布時には、小学校の教科書にふさわしい本の一つとして挙げられた。 1876年(明治9年)の東京師範学校中学師範科が創立される際には、その校務に参画。同年、ヨーロッパを歴遊しアメリカを経て帰朝する。1879年(明治12年)には初の東京学士会院会員に選ばれ、翌年には交詢社創立に参与して幹事に推挙される。1890年(明治23年)9月29日、学識者として貴族院議員に推される。貴族院内部では、谷干城・三浦安・山川浩と共に懇話会に所属。貨幣制度調査委員となり、日本郵船の役員を兼ねる。勲四等瑞宝章を受ける。 その前年の10月には病に伏せった小泉信吉の代理として慶應義塾長の代理となり、1890年(明治23年)3月には重ねて慶應義塾長となる(1897年(明治30年)10月まで)。1898年(明治31年)4月慶應義塾副社頭に、さらに1901年(明治34年)には社頭となって慶應義塾では福澤に次ぐ中心人物となった。晩年、死期が近づくと、蔵書の半分を旧宅地とともに故郷・中津に寄附し、図書館を設立するよう指示(蔵書の残り半分は慶應義塾に寄附)。これが現在の中津市立小幡記念図書館のもととなった。 1905年(明治38年)4月16日、病気のため死去。享年64。
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「生い立ち 経歴」の例文・使い方・用例・文例
- 弁護士は裁判官に彼の貧しい生い立ちを考慮してほしいと頼んだ
- 彼は彼女の生い立ちを知りたがっている
- あなたの生い立ちは?
- 彼の生い立ちについて書きたいと思う。
- 彼の不幸な生い立ちについてもっと知りたい。
- そして私の知る限り、彼の生い立ちは大変興味深いです。
- 彼は問わず語りに自分の生い立ちを語った.
- 彼は上品な生い立ちだ
- 彼は生い立ちが好い
- 彼女は生い立ちが好い
- 偉人の生い立ちはこんなものだ
- 彼の生い立ちはわからない
- 大様な生い立ちだ
- 幼い時の生い立ち
- 生い立ち
- ギャツビーはニックに自身の生い立ちを語る。
- 弁護士としての経歴を築く
- その選手はアマチュアとしての経歴を切り上げ,プロのチームに入った
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