弁護士としての経歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/17 10:00 UTC 版)
「クリストファー・ゴア」の記事における「弁護士としての経歴」の解説
ゴアは軍務を離れた後に、ジョン・ローウェルと共に法律を勉強し、比較的短期間の修行後の1778年には法廷弁護士として認められた。ゴアの法律実務は繁盛した。これは多くのロイヤリストの弁護士がマサチューセッツから出て行っていたことも原因の一つだった。ゴアの顧客には資産を幾らかでも取り戻そうというロイヤリストや、ロンドンを拠点にするイギリス人商人も居り、以前の権利を追求しようとしていた。ゴアの弁論は概して理路整然としており、成功した法廷弁護士と見られていた。 ゴアは革命側の通貨や債券に慎重に投資することで財産を築いた。購入した証券は大陸軍の兵士に給与の代わりに渡された紙幣であり、大幅に割り引いて売却することが多かった。例えばゴアが購入した証券の一束は約3,700ドルだったが、額面では25,000ドルだった。1785年、ゴアは裕福な商人で海運保険業者、マサチューセッツ銀行支配人の娘であるレベッカ・アモリー・ペイント結婚した。この夫婦はその社会的品位で知られ、ボストン社交界で著名な一員になった。 1786年、ゴアはマサチューセッツ州で弁護士に対する反感が強くなることを心配するようになった。ジェイムズ・ボーディン州知事が進めた厳しい政策に対する苦情がシェイズの反乱となり、1787年には民兵隊と衝突するまでになった。ゴアは反乱軍に加わった者達を弁護する注目を浴びる弁護士団の1人に指名された(この弁護士団には、セオドア・セジウィック、ケイレブ・ストロング、ジェイムズ・サリバン、リーヴァイ・リンカーン・シニア、トマス・ドーズがいた)。多くの反乱者が最終的に有罪とされたが、その多くが恩赦を受けた。1788年、ゴアはアメリカ合衆国憲法を批准するためのマサチューセッツ邦会議の代議員に選ばれた。ゴアが住むボストンは当時州の権限を重視する方向に傾いていたために、その代議員に選ばれるのが大変だった。それでも強固な連邦主義者であるゴアは新憲法の批准を強く推進した。
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