弁護士から政界へ
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川崎製鉄に同期入社し、独身寮で1年起居をともにした同僚の妹と1963年に結婚。結婚相手の父親はゾルゲ事件においてリヒャルト・ゾルゲの官選弁護人をつとめた浅沼澄次であった。これが縁となり「跡継ぎ」のような形で34歳から司法試験の勉強を始める。1972年、弁護士登録。1982年、第一東京弁護士会副会長に就任。 1985年、国会議員への転身を考え始め、福田赳夫と第一高等学校時代の親友だった弁理士の谷山輝雄が福田に杉浦を推薦。されども、旧愛知4区には福田派の重鎮、中野四郎元国土庁長官がいた。義父の浅沼澄次が第一高等学校・東大で同期として親しかったこともあり、福田とは浅からぬ縁があったが、中野の存在はいかんともしがたかった。 そんな中、7月10日に中野が渋谷区の自宅で階段を踏みはずして入院。7月16日に容態が悪化し、翌日、酸素吸入器と人工蘇生器がつけられる。 同年秋、東京に大学生の長女、高校生の長男を残し、妻と岡崎市に移り住んだ。10月12日、衆院選に向けた事務所を岡崎市末広町3丁目に開設。10月21日、中野は急性心不全によりこの世を去った。 同年11月6日、第1回後継者選考委員会が開かれるも、後継候補として名前が挙がったのは知立市選出の県議の鈴木政二、中野の第一秘書の中原義正、志賀重昂の孫で前特許庁長官の志賀学、安城市選出の県議の杉浦正行の4名であった。ことに後援会最高顧問の鈴木熊次郎(中日本鋳工株式会社会長)は杉浦正行を強く推していた。岡崎市長の中根鎭夫は近畿財務局総務部長の谷川憲三の擁立に動いたが失敗に終わっている。12月19日の幹部総会において、稲垣実男の選挙参謀である杉浦正行が候補から脱落。さらに1986年1月、岡崎市出身の志賀が候補から脱落。2月2日、岡崎は福田派の市議が5人しかいなかったが、自民党岡崎支部は杉浦正健の推薦を決定。2月6日、福田派幹部会が開かれ、鈴木政二が後継者に内定する。ところがその8日後、鈴木は父親の病気を理由に内定を返上。2月19日、中原義正は記者会見し、「中野先生の遺志を継ぐ」として出馬を表明した。 こうした情勢の中、福田赳夫は鈴木熊次郎ら幹部の面々を東京に招き、「杉浦君は必ずものになる。杉浦君を頼む」と両手をついて頭を下げたと言われている。安倍晋太郎の後押しもあり、3月19日、ついに杉浦が後継者に内定した。選挙の軍資金として杉浦は3億円を用意した。自己資金は預金と援助のほか東京に持っていたマンションを売り払って2億円。残りは家を担保に銀行から5千万円、弁護士仲間から「有る時払い」で5千万円、それぞれ借りた。
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