弁護団の結成
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GHQは1945年(昭和20年)11月には戦犯容疑者が非公式で弁護人を探すことを許可していた。 日本人弁護団 日本人弁護団は、団長を鵜澤總明弁護士とし、副団長清瀬一郎、林逸郎、穂積重威、瀧川政次郎、高柳賢三、三宅正太郎(早期辞任)、小野清一郎らが参加した「極東国際軍事裁判日本弁護団」が結成された。しかし、日本人弁護団内部では、自衛戦争論で国家弁護をはかる鵜澤派(清瀬、林ら)と個人弁護を図る派(高柳、穂積、三宅)らがおり、さらに国家弁護派内部でも鵜澤派と清瀬派の対立などがあった。日本人弁護団の正式結成は開廷翌日の1946年(昭和21年)5月4日であった。 アメリカ人弁護団 ニュルンベルク裁判では弁護人はドイツ人しか許されなかったが、東京裁判ではアメリカ人弁護人も任命された。日暮吉延によればこれは「勝者による報復」批判を免れるためだったとする。 1946年(昭和21年)4月1日に結成されたアメリカ人弁護団団長は海軍大佐ビヴァリー・コールマン(横浜裁判の裁判長)。弁護人としては海軍大佐ジョン・ガイダーほか6名であった。しかしコールマンが主席弁護人を置くようマッカーサーに求めたところ、受理されず、コールマンらは辞職する。実際には、アメリカ本国でもっと有利な仕事を見つけたためとする説もある。変わって陸軍少佐フランクリン・ウォレン、陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニーらが派遣され、新橋の第一ホテルを宿舎とした。 陸軍少佐フランクリン・ウォレン(土肥原、岡、平沼担当) 陸軍少佐ベン・ブルース・ブレイクニー(日本語を解した。東郷・梅津担当) ジョージ山岡(日本語を解した。東郷担当) ウィリアム・ローガン(木戸担当) オーウェン・カニンガム(大島浩担当) 陸軍中尉アリスティディス・ラザラス(畑担当) デイヴィッド・スミス(広田担当) ローレンス・マクマナス(荒木担当) 予備海軍大佐リチャード・ハリス(日本語が達者であり、弁護部管理主任も務めた。橋本担当) ジョージ・キャリントン・ウィリアムス(星野担当) フロイド・マタイス(板垣、松井担当) マイケル・レヴィン(賀屋興宣、鈴木担当) ジョゼフ・ハワード(木村担当) アルフレッド・ブルックス(小磯、南、大川担当) ロジャー・コール(武藤担当) ジェイムズ・フリーマン(佐藤担当) 陸軍大尉ジョージ・A・ファーネス(重光担当) エドワード・マクダーモット(嶋田担当) チャールズ・コードル(白鳥担当) ジョージ・ブルウェット(東條担当) ジョン・G・ブラナン(永野担当)
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