弁護士から法律顧問へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 16:41 UTC 版)
「ウィリアム・カークウッド」の記事における「弁護士から法律顧問へ」の解説
1882年(明治15年)4月から日本における英国王室訴追人(Crown Prosecutor)と英国公使館臨時法律顧問に任命され、同年12月からは日本における英国王室代言人(Her Majesty's Crown Advocate)と英国公使館法律顧問(Legal Adviser)を1885年(明治18年)まで務めた。1885年(明治18年)4月、日本政府(司法省)の法律顧問として就任。3年契約で月給500ポンドであった。法律取調委員として各種法令の起草に従事した。1887年(明治20)年1月、新たな雇用契約を結び、1886年(明治19年)から1901年(明治34年)までの15年間の長期雇用になり、報酬も5年ごとに800円、900円、1000円に段階的に上昇させ、特別契約で年間3000円の支払いを約束する破格の待遇となる。これは井上馨外務大臣の構想により、外国人裁判官導入後の大審院判事としての雇用を前提としたため。結局、井上の後任外相となった大隈重信が爆弾で負傷し、外国人裁判官構想は実現しなかった。1887年(明治20年)7月、横浜でエシル・ケイト・モリスと再婚した(先妻とは死別)。
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