環状列石27号でおこなわれた造墓活動とその編年
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「セネガンビアの環状列石」の記事における「環状列石27号でおこなわれた造墓活動とその編年」の解説
環状列石27号は、セネガンビアの巨石記念物分布域の中でも珍しい二重の環状列石である。Sine Ngayéneの墳墓群のなかでも中心的で重要な位置を占める。 環状列石27号は、直径10mに達する二重の環状列石である。内側の環状列石の輪は、中心点からややずれた位置に直径4mの輪をつくる環状列石がある。内側の列石は、15基の石柱で構成されやや小さな規模である。全体的に見て石柱は、50cmから1mくらいの間隔をおいて建てられている。 環状列石27号の発掘調査は、6区に分けて行われた。北側の部分は、1m×3mのサブトレンチを三ヶ所設定して調査を行い、南側の部分は、80~90cmにわたって表土をはがした。内側の環状列石の内部の中央部分に2m×2mのトレンチを入れて調査を行った。調査にあたっては、環状列石の中心軸をもとに四つに分割した。1m80から2mに及んで層序に留意しながら発掘調査をすすめた。紀元6~7世紀から14~15世紀にかけて順次築かれた環状列石は、三期にわけて考えることができるとおもわれる。 環状列石27号で最初に造墓活動が行われた時期を第1期とすると、その様相は、南東区部分のサブトレンチの深さ1.8m~1.2mの位置で遺骨が3ヶ所に集められて埋葬されている状況が発見されたことによって明らかにされた。遺骨はだいたいのところ円形になるように集められて埋葬されているが南北方向にやや長い形になっている。20個くらいの頭蓋骨に対し、100本くらいの大腿骨のような長い骨の組み合わせになった錯綜した状態で埋葬されている。これらの遺骨の埋葬には、四つの鉄製の槍先や銅の合金でできた指輪が副葬品として発見された。このような状況から、これらの遺骨は明らかに二次埋葬によるものであるといえる。これらの骨は別の場所で仮に埋葬され、遺体の骨を部分的に採取するなり、選ぶなりしてまとめて埋葬された。環状列石27号の一番下層で発見された構造上の全ての発見は、外側の環状列石と内側の環状列石が造られる際に中心がやや移動したことを示している。 これらの埋葬行為を復元するなら次のようになるとおもわれる。まず最初に墓地の主要になる部分として径2m、深さ2mに墓坑を掘る。すべて大人のものと思われる骨が相当数の遺体が一時的に埋葬されている場所から選ばれて頭蓋骨を北、南、東へ集中させて埋葬する。骨が山積みのように埋葬された場所は小高く沖積土で覆い、ラテライトの岩の塊がいくらか積まれたような状態にされた。それから墓坑はすっかり埋め立てられて平坦にならされた。次に墓坑のあった場所に第1期の「墓碑」として外側の環状列石と墓標となる二つの石柱が立てられた。 環状列石27号は名も知られぬ人々の集合墓であり、それぞれの骨や頭蓋骨が埋葬されていることを記念するものであって、地表にある直径10mの環状列石のみで構成されているのではない。時期的には700年から900年の間に築かれた。正面にあるふたつの石柱は、東側の「回廊」「出入り口」の範囲を仕切るように建てられている。 第2期は、深さ0.6m~1.2mの位置に埋葬が行われた。主として二種類の埋葬行為が行われた。ひとつは、ちいさな墓坑に多数の長い骨を埋葬する方法である。もうひとつは、歯のついた下顎骨を小さな墓坑に埋葬する方法である。こういった遺跡は、いったん掘ってひっくり返し、30cm~50cmほど盛り上げられた場所が目印のようになっている。このような埋葬の方法は、限られた空間に選択的に多量の骨を埋めるような判断の基準があって行われた行為であることが推定される。大腿骨や腓骨、脛骨など長い骨と下顎骨のみが埋葬されているということは、他の骨格の部分が排除されているということである。遺体を分割するようなこのような変化は紀元900年から1000年ころに起こった。前の時代と同様に遺体は腐敗しやすい状況で安置された。次に二次埋葬を行うためにあらかじめ遺体の特定の部分の骨を選ぶ儀式が行われた。続いて環状列石27号の埋め土に小さな墓坑が掘られる。環状列石に埋葬するために個々ないし複数の骨が選ばれて埋葬される。このように掘られた墓坑も土器と一緒に埋め立てられてならされる。 同時期の遺跡や遺構などの事例を調べてみても埋葬の行われ方についての頻度がかならずしも充分に推定できるものでもないし、数ある遺体の中で個人を特定できるような関連性がかならずしもわかるわけではない。紀元1000年紀の終わりごろ、つまり、紀元1000年前後に環状列石27号の外面的な様子が変化することはなかった。環状列石27号は18の巨石が環状にめぐり、墓標となるふたつの巨石が2基つけ加わって構成される。 環状列石27号の第3期、つまり最後の様相は、堆積層の最上層部分にあたる地表から深さ0.2m~0.6mの層から状況を知ることができる。この層には、細かな骨片が混じっており、先行する時代に埋葬された骨を何回か掘り起こしたか、再度掘ったかして動かしてきた結果そのような状態になったのかもしれない。 環状列石27号の構造は、11世紀から14世紀にかけて列石に囲まれた空間部分が著しく変貌した。環状列石27号の内側の環状列石は13本の石柱が立てられ規模が縮小されている。 27号環状列石は、この時期以降に北側の側面に土器を伴ったラテライトの平石が置かれ、西側にはラテライトの小さな石塊が長さ1m10cm、幅45cmにわたって土器とともに散布しており厚さ50cmにわたっておおっている状態になっていく。つまり、27号環状列石は、儀式や祭儀を行う場所になっていった。大地に対する信仰のために、ラテライトの平石は、もしかしたらいけにえないしささげ物のためのテーブルに使われたのかもしれないし、または、ささげ物をするための容器や一種のお神酒を奉納するような儀式に使われたとも考えられる。環状列石27号は、二重の環状列石という特色から、墓地全体の中核のような存在と位置づけられて象徴的な役割を担わされて儀式や祭儀を行う空間としてその役割が変貌していったと考えられる。
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