理事長から会頭に就任
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1949年(昭和24年)12月に理事長に就任して会頭・総長だった呉文炳を補佐しつつ、教育と経営は一体であり私立大学は自ら財政基盤を強固めにして、自主的な経営を行う事によって私学に置ける学問の自由や研究の成果は期待できないと考えて財政基盤の強化と研究の充実に力を振るった。1951年(昭和26年)2月に理事長を退くものの、同年5月には理事会長として復帰。更に1956年(昭和31年)の企画委員会総会では委員長の古田が「今日の内外の情勢と大学のあり方」というテーマで以下の様に発言している。 皆様が承知の通り大学の使命重要度は増加してきた。社会は月進歩月歩の古語があるが、今日の社会進歩のスピードが早く、世界各国の距離間隔はせばまり一国の状況は他の国々にも大きな影響を与える。各国は一日と安心せず、研究が盛んに続行して止むことなく研究と教育の最高の場が大学である。大学の使命が世界的重要度があるのは当然である。世界各国とも大学のあり方に対する関心が高くて異常なものである。 1958年(昭和33年)6月に呉の後を受けて会頭に就任すると共に、永田菊四郎総長と二人三脚で世界的総合大学を目指し、新体制のもと学内外の情勢の変化に積極的に対応して、同年9月に世界的なを目指すための日本大学改善方策案を掲示した。 日本大学は日本精神にもとづいて・道統をたっとび憲章に従い自主創造の気風をやしない文化の進展を図り世界の平和と人類の福祉に寄与することを目的とする。日本大学は広く知識を世界にもとめて深達な学術を研究して心身ともに健全な文化人を育成する事を使命とする この改善案は、 原則として創意工夫して最小限の経費から最大限の効果をあげる。 教育内容の拡充強化を図る。 総論で世界的総合大学を目指して整備計画案の政策への対応 として組織の拡大・マスプロ教育を目指し、学習機能・研究機能・就職機能・校友会の強化、広報の合理化、教育は建学の精神である伝統的精神を方針とした。当時高まりつつあった学生運動に対しては学生の政治活動を制限し、教授陣の強化のため海外・国内留学制度を強化、研究出版助成制度の創設と組織改革を行った。大学院や短期大学部の再検討、女子教育や夜間教育の充実も挙げられていた。各学部・学科の校舎や医学部病院など施設設備を強化するために「3ヵ年計画」を作成し、教育・研究内容の改善や教職員の待遇改善と教授陣の強化を図った。だが、この「3ヵ年計画」は不景気による資金調達の困難から設備更新や不動産取得が難しくなり新たに「5ヵ年計画」を作らざるを得なかった。更に、大学全体の教育充実と学生教職員の福利施設の拡充、育英制度の導入と学生会館・国際会館の建設、組織の近代化・合理化と産学協同の推進が謳われた。 この改善案をめぐって商経学部第二部(現・日本大学経済学部)自治会で共産党の活動家などの反対派を中心に古田の改善案反対デモが起きる(日大改善案闘争)。10月23日、商経学部二部自治会学生大会の時に勤務評定反対闘争(教育労働運動)に参加した自治委員の不当処分撤回と、日大改善案・警察官職務執行法改正案反対のストを決行。24日に全学授業を放棄し、ピケットを張り学内デモを起こした。日大当局は25日に臨時休校を発令。反対派による高木学部長との会見を27日に日大側に要求したが、日大当局側は学部長との会見の要求に応じなかった。日大当局は28日、29日の教授会で、スト決行の責任者7名を退学処分にする旨を発表する。11月22日、不当処分を不服に思った反対学生が学内抗議集会を日大職員に要求するも、職員は学生に暴行を加えて抑止した。警職法改正案反対中央集会に参加してデモをしていた他大学の学生も、大学キャンパス内で巻き込まれ暴行を受けた。日大当局側は事態を重く受け、高木学部長名で機動隊2000名を学内に導入し、大量の退学者・処分者を出して日大改善案闘争は終結した。これにより古田体制とその後の日大の学内体制が確立された。
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