独立、都市化、急成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 09:24 UTC 版)
「サマービル (マサチューセッツ州)」の記事における「独立、都市化、急成長」の解説
独立戦争が終わると、サマービル住人は再度そのエネルギーを生活のための事業に注ぐことができるようになった。1780年代から、チャールズタウンと分離した1842年まで、やや緩りとではあるが事態は進行し続けた。交通インフラが次第に地域を変革させ、レンガ造り、石材加工、酪農など新しい産業が興った。 1800年代初期から半ばの交通事情の改良で、より都会的な住居形態に変わり、1872年には市として法人化された。これら改良には、1803年のサマービルを通るミドルセックス運河の開通、1810年代から1820年代に建設されたメドフォード通りとビーコン通りのような有料道路の開通があり、特に鉄道の開通があった。1841年、フィッチバーグ鉄道がボストンとケンブリッジのフレッシュポンドの間、サマービル・アベニューに並行して建設された。このことで、その沿線に企業が設立されていった。それから間もない1843年、フィッチバーグ鉄道が旅客輸送を始め、プロスペクト・ヒルとスプリング・ヒルの南斜面に住宅開発を可能にした。1840年代初期までに、人口は初めて1,000人を超えた。 しかしこの成長にも拘わらず、不満が「ネック」の外側に広がっていた。田園部の農夫はチャールズタウンの政府に税金を払っていたが、その見返りが少なかった。1842年でも、教会が無く、学校は少なく、宿屋も無く、お粗末で通行出来ないような道路があった。独立戦争の後の長い期間、チャールズタウンの「内側」と「ネックの外側」という2つの部分では、人口が同じくらいだった。それが時を経て内側が外側を凌ぐようになっていた。この人口と交易の成長により市の仕組みを必要とするようになり、その結果大きな費用を要した。よってチャールズタウンの田園部は、通りの舗装、夜警の維持、消防署の建設など、その恩恵をあまり受けられない改良のために税金を払っている状態だった。 1828年、チャールズタウンの一部をウォーレンという名前で別の町として分離する請願がマサチューセッツ州議会に提出された。この別の町に対する願望は広がり続け、1841年までに政府の適切な対応を無視して来た態度に我慢できなくなり、住民は再度町の分離を扇動し、11月22日にプロスペクト・ヒルの校舎でこの問題に関する集会が開かれた。 請願書が起草され、ガイ・C・ホーキンス他151人が署名し、議会を通すための委員会が開かれ、続いて議会に進められた。新しい町を法人化する法案は1842年3月3日に州知事が署名して成立した。チャールズタウンから分離したときの当初の町名は、チャールズタウンの最初の開拓者トマス・ウォルフォードに因んでウォルフォードとされていた。しかしこの名前は分離委員会によって採用されなかった。委員の1人チャールズ・ミラーが「サマービル」を提案し、結局これが採用された。これは特定の個人の名前ではなく、サマービル歴史協会の報告書では「純粋に創造力溢れる名前」であるとされていた。 1842年に町になる前の住人はイギリス系農夫と、ボストン、ケンブリッジ、チャールズタウンの市場に商品を売るレンガ工だった。市場が成長すると、1842年から1870年の間に人口は6倍の14,685人に成長した。地域に急激に移民が増加し、産業が興り、レンガ造りが最大の事業になった。機械プレスが発明される以前、年間130万個のレンガを作っていた。その後生産量は年間550万個まで増加し、この成功で他の多くの産業も誘致するようになった。1851年、アメリカン・チューブス・ワークスが開業し、続いて食肉加工と包装工場が創業した。そのほか蒸気機関、ボイラー、ガラス、鉄を作るようになった。 それから間もない1872年には市として法人化された。人口の成長は既存交通機関の改良に加え、1870年にはデイビス・スクエアを通るレキシントン・アンド・アーリントン鉄道が開通したことが貢献した。その最盛期には市内に8か所の旅客駅があった。この期間に浮揚した経済は、住宅地の中核周辺、貨物鉄道の近くにある産業と結びついていた。1870年代半ばまでに、食肉加工工場が主要雇用主となり、地域の利益を生み出すところとなった。 第二次産業革命の時代(1870年-1915年)は、公的な面も商業的な面でも驚異的な成長の時代だった。鉄道、水道、電報、電力などのインフラが整備され、周辺の町と繋がれた。人口は15,000人から90,000人にも爆発的に拡大した。1830年代に初めて鉄道が開通してからレンガ造りが地域を支配しており、レンガ工場は1870年代を通じて繁栄した。食肉加工がレンガ造りに取って代わり、「ニューイングランドのシカゴ」とも呼ばれるようになった。さらにボストンに隣接していることと、鉄道や道路が使いやすかったことで工業施設の理想的な立地になった。 1915年から1930年、サマービルの工業は拡張よりも統合が進み、人口増はやや鈍化した。この時代の最も重要な産業は食肉加工、酪製品、氷と食品の物流だった。1925年にマクグレイス・ハイウェイが建設されたことは、工業都市としてのサマービルの転換点だった。1926年にはフォード・モーターがアッセンブリー・スクエアに組立工場を建設して加速された。それに続く時代は、自動車の組立が食肉加工に代わって最重要産業となり、主要工業地帯としての変革が進んだ。 20世紀の初めはユニオン・スクエアとデイビス・スクエアが最大の商業地域だったが、それよりも小さく開発の劣る・スクエアも成長していた。ボール・スクエア、マゴーン・スクエア、ティール・スクエアには1階建てあるいは2階建ての商業ビルが建設されて発展した。小売業と金融業も広がった。工業全盛の時代は第二次世界大戦を通じても継続し、1940年には人口105,883人に達した。建設ブームは1940年代に入っても継続し、「住宅の都市」と呼ばれる密な住宅地が出来上がった。
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