父親の承諾――岩谷堂にて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)
「伊藤初代」の記事における「父親の承諾――岩谷堂にて」の解説
西方寺の住職夫婦の反対があっても、初代の実父・伊藤忠吉から正式な承諾を得れば大丈夫だろうと川端は考え、岩手県江刺郡に住んでいるという忠吉を10月末に訪問することにした。その岩手行きには三明永無の他、石濱金作と鈴木彦次郎も同行することとなり、三明の提案で、不審人物と見られないように東京帝国大学の学生らしく制服制帽で正装した。 4人は東北線の水沢駅から6キロ離れた江刺郡岩谷堂に自動車で赴き、役場で忠吉の戸籍謄本をもらい、忠吉が使丁(用務員)をしている岩手堂字上堰の岩谷堂尋常高等小学校増沢分教場を訪問した。校長・高橋藤七と忠吉に面会した4人は、自分達の泊まる宿まで忠吉に来てもらい、川端と初代の婚約を報告し承諾を願い出た。忠吉は急な話に動転して答えに窮し、出された料理にも手をつけずに膝に手を置いたまま何も返事をしなかった。 その夜、改めて学校に来てほしいという言伝を持った使いが4人の宿にあり、彼らは学校の宿直室へ行った。友人の誰かが忠吉を説得するために、病死している川端の父親を日露戦争で戦死したと言い、ひ弱そうに見える川端を擁護した。忠吉は当直の教員・鹿野新八に付き添われており、鹿野が忠吉は初代本人の気持ちが解らないからと言っていると代弁した。 川端は、証拠として初代の10月23日付の手紙と岐阜の瀬古写真館で撮った婚約記念写真を持参していたが、「愛」「恋」と書かれている文面が父親を傷つけるかもしれないと思い、写真の方だけを見せた。忠吉は写真の初代を見て涙をこぼし、娘本人がそう希望したなら、それでよい、と小さな声で答え、その気持ちが素直に伝わり川端の胸を打った。承諾を得た翌日の朝、改めて川端だけで再び学校にいる忠吉に挨拶をした後、4人は鈴木の実家のある盛岡に寄り一泊してから11月1日に帰京した。 初代の父・忠吉の承諾を得た川端は、改めて忠吉へ挨拶と地固めの手紙を出し、台湾にいる山田ますへは自分が責任をもって連絡相談することと、もしも西方寺の初代へ手紙を出す場合、養父母に開封されるため、初代が寺を出たがっていることは自分と関係ない旨を書くようにお願いして、以下のように書き送った。 私から申し上げるのは変で恥しう御座いますが、本人初代様の意志は大丈夫で御座います。私が心を一事に注いで動いて居りますのも、初代様の心が頼りだからで御座います。なるべく早く出来るだけのことは致します。此の正月は初代様を国に送つて、久々に新年を共々御迎へ下さるやうに、屹度致します。 — 川端康成「伊藤忠吉への書簡」(大正10年11月2日付) 15歳の初代と一緒になれるという〈奇跡のやうに美しい夢〉を持った川端は、忠吉と会ってから数日後、〈若い恋愛の勢ひ〉で小石川区小石川中富坂17番地(現・文京区小石川2-4)の菊池寛宅を訪ね、結婚するため翻訳の仕事を紹介してほしいと願い出た。 菊池は、「今頃から結婚して君がcrushedされなければいいがね」とぽつりと心配したが、何の批判も詳細追及もせず、近々1年近く洋行する自分の留守宅に川端と初代が住んでいいと言い、その間の家賃も菊池が払い、生活費も毎月50円くれるという〈思ひがけない好意〉をくれた。川端は、菊池の親切に〈足が地につかぬ喜びで走つて〉帰り、〈芸術精進の一念〉に燃えながら、恋に心が清らかになり、何を見ても明るかった。 初代との新居は三明の世話で、本郷区根津西須賀町13(現・文京区向丘2丁目)の戸沢常松方の二階に八畳二間の部屋を借りて、家財道具も揃えた。家主からも新妻の到着を期待され、初代との新生活への夢に川端の希望は膨らんでいた。 私はその娘の膝でぐつすりと寝込んでしまひたいと思つてゐたのだつた。その眠りからぽつかり目覚めた時に、自分は子供になつてゐるだらうと思つてゐたのだつた。幼年らしい心や少年らしい心を知らないうちに、青年になつてしまつたと云ふことが、堪へ難い寂しさだつたのだ。 — 川端康成「大黒像と駕籠」
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