燻乾法の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 07:41 UTC 版)
江戸時代に、紀州印南浦(現和歌山県日高郡印南町)の角屋甚太郎という人物が燻製で魚肉中の水分を除去する燻乾法(別名焙乾法)を考案。これにより現在の荒節に近いものが作られるようになり、焙乾法で作られた鰹節は熊野節(くまのぶし)として人気を呼んだ。さらに1674年(延宝2年)には角屋甚太郎によって土佐の宇佐浦に燻製法が伝えられた。 大坂・江戸などの鰹節の消費地から遠い土佐ではカビの発生に悩まされたが、逆にカビを利用して乾燥させる方法が考案された。この改良土佐節は大坂や江戸までの長期輸送はもちろん、消費地での長期保存にも耐えることができたばかりか味もよいと評判を呼び、土佐節の全盛期を迎える。 改良土佐節は燻乾法を土佐に伝えた甚太郎の故郷に教えた以外は土佐藩の秘伝とされた。しかし、宝永年間(1704〜1711年)には紀州の森弥兵衛によって枕崎に製法が伝えられた。さらに土佐与市によって天明年間(1781〜1789年)に熊野や安房、享和元年(1801年)に伊豆へ製法を広めた。これにより土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と呼ばれるようになる。 江戸期には国内での海運が盛んになり、九州や四国などの鰹節も江戸に運ばれるようになり、土佐(高知)の「清水節」、薩摩の「屋久島節」などを大関とする鰹節の番付表が作成された。 参考・文政五年(1822年)の諸国鰹節番付 大関 - 清水節(東方・土佐)、役島節(西方・薩摩) 関脇 - 宇佐節(東方・土佐)、御崎節(西方・土佐) 小結 - 福島節(東方・土佐)、須崎節(西方・土佐) 以下、行司、前頭、世話方、勧進元が続く。なお、土佐節、薩摩節などは土佐、薩摩などで作られた節の総称である。 1883年(明治16年)に東京の上野公園で「第一回水産博覧会」で、1908年(明治41年)に「大日本水産会第一回鰹節即売品評会」が開催されるなど、各地で鰹節の品評が行なわれ、東の焼津節・西の土佐節の品質が高く評価された。 大正時代には産地の枕崎などではカツオ漁業と鰹節加工業が分離して専業となったことで鰹節の品質が向上したといわれている。 枯節のカビは当初自然発生させていたが、昭和以降は純粋培養したカツオブシカビ(コウジカビの一種、学名Aspergillus glaucus)を噴霧することで完成までの日数短縮と、好ましくないカビが発生する問題の回避を行なうのが主流になっている。 明治以降、日本が国際連盟の委任統治領としていた南洋諸島(ミクロネシアの島々)や20世紀に日本が統治をしていた台湾でも製造されるようになった。特に南洋ものは安価であったことから大いに市場を拡大したが、南洋諸島が第二次世界大戦後に日本の統治を離れたことで、この地域での鰹節産業は終焉を迎えた。しかし、台湾では、日本食品として鰹節の利用も根付いた。「柴魚」と呼び、現在も東部の台東県や花蓮県で製造されており、麺線などの台湾料理のスープを取るのにも用いられる。花蓮県新城郷には「七星柴魚博物館」という鰹節をテーマにした博物館がある。
※この「燻乾法の確立」の解説は、「鰹節」の解説の一部です。
「燻乾法の確立」を含む「鰹節」の記事については、「鰹節」の概要を参照ください。
- 燻乾法の確立のページへのリンク