漁業の盛衰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:07 UTC 版)
20世紀後半に導入された三津の定置網漁 水揚げの様子 1875年(明治8年)、隣村の掛津の琴引浜や太鼓浜に繁殖していた老松を伐採したことが契機となり、三津・遊・掛津など一帯の浜に魚が寄りつかなくなったことが、一時、漁業が衰える一因となった。明治末期の集落の規模は、戸数121戸あったが、漁業者は17名で漁船12艘を所有した。毎年4月から6月にかけての漁繁期には人手不足で、他の地域から人を雇い入れた。昭和初期には、伊根町や越中などから漁師が来て、三津でともに漁をした。田植えや稲刈りなどの農繁期にも漁師の伝手で鳥取県の網代村から農家1軒あたり7名ほどの人手を雇い入れることもあったという。 1936年(昭和11年)から1937年(昭和12年)頃はマグロが最盛期で、海をウヨウヨと泳いでいるマグロの姿が肉眼で見えるほどおり、1日3回定置網をあげて大きいもので200~300キロものマグロを毎日30匹は漁獲した。1シーズンで500円ほど稼いだという。マグロは1965年(昭和40年)頃まで定置網でアジとともによく獲れ、獲れすぎて魚の重さで船が沈みかけたため、やむなく海に捨てたこともあるという。全盛期には、水揚げしたマグロを解体した血で三津浦の海一面が赤く染まるほどの漁獲量があったという。 漁業協同組合は1949年(昭和24年)に発足し、組合員数45名で、この人数は昭和期末までほぼ変動はない。旧島津村の漁協で行われていた電気で鉄板を加熱して海水を炊く製塩業を引き継ぎ、漁業者の多くが従事した。 1968年(昭和43年)頃に漁船を動力化する漁業者がではじめる。手漕ぎ船だと40分かかった漁場まで10分で行けるようになったため、1日の漁獲高が飛躍的に向上した。 昭和40年代後半は、それほど沖に出なくとも豊漁であり、三重県から何台もの大型トラックが頻繁に買い付けにきていた。イワシの豊漁期には、海から戻って荷を下ろした後、網に絡んだイワシを払い落とる手間をとられ、休む間もなく船を出すような操業を繰り返したため過労死した漁師も数名おり、以後は負担軽減のためにイワシが絡みにくい魚網が導入された。 三津で捕れる魚類で高値で取引された高級魚はタイとスズキであったが、定置網による乱獲が原因となり1970年(昭和45年)頃からこれらが獲れなくなると、漁業の利益は徐々に出なくなり、昭和末期にはマグロなど他の魚類も漁獲量が減少するとともに、魚種も変容していった。1973年(昭和48年頃)からは繁忙期にも他所から人を雇うことはなくなり、三津の漁業者のみで独自に漁をするようになった。 釣りや海水浴、民宿に宿泊した客の土産にサザエが重宝されたが、昭和後期には漁獲量全体の7パーセントの密漁を記録するなど、密漁者対策に悩まされた。 定置網は1946年(昭和21年)には個人でも操業されていたが、大敷網の導入は1985年(昭和60年)のことである。定置網漁は1998年(平成10年)に発足した三津漁業生産組合に引き継がれ、2016年(平成28年)から2020年(令和2年)3月までの数年間、定置網漁業体験事業を実施して漁業と観光の両立をはかった。
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