漁業のはじまり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 04:07 UTC 版)
「三津 (京丹後市)」の記事における「漁業のはじまり」の解説
海岸段丘上の集落である三津の耕地は狭く、農耕の発展を期待できる地形ではなかったことから、生活の糧を海に求めるようになったとみられる。 文禄年間(1592年-1596年)、喜太夫という者がワカメを刈り、鯛を釣り、塩を精製するなどの漁業を営む余暇に、村の婦女子を集めて製塩法を伝授した。また、藤葛の皮を細く割いて縄をない、この縄に多くの釣り針を付けた延縄を作り、5月から6月にかけて4人乗りの船で遠海に出漁して多くの釣果をあげた。1599年(慶長4年)に喜太夫が死去すると、これらの漁法は一時途絶えたが、寛永年間(1624年-1645年)頃に三津や掛津の漁業者が協力して喜太夫の使用した延縄を模した仕掛けを作り、十余里沖合に出漁して多くの釣果をあげたことをきっかけに、三津の産業の中心は漁業となっていく。 ワカメは、江戸時代には「三津若布」として広く知られる三津の特産品となり、昭和初期には近隣地域にタイなどの魚とともに行商したほか、手鎌で刈り採ったワカメを板の上で乾燥させて板ワカメとし、広島など全国各地に販売した。誰がどの場所でワカメを干すかは毎年クジで決められ、三津の砂浜一帯にワカメを干す光景は1965年(昭和40年)頃の写真にも残されている。昭和50年代頃、安価な養殖ワカメの普及により単価が下がり、収入が半減する大打撃を受けるまで、三津を代表する産物のひとつだった。 喜太夫が広めた三津の製塩は、「琴引の塩」として現代まで近隣に知られる。三津では、慶長年間(1596年-1615年)頃から、塩浜を経営して浜運上として宮津藩に塩2斗を納めていたが、喜太夫が製塩法を伝授した隣村の掛津からもその恩謝として三津に毎年4升の塩が送られていた。製塩事業は昭和時代まで漁業者の大半が従事する三津集落の産業として引き継がれた。1997年(平成9年)の製塩自由化を受けて設立された1工場が、昔ながらの平釜を用いて薪で加熱する製塩法を21世紀に伝えている。
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